決定的なこと。
「自分」という存在が幸福と思える状態はどこにあるか。
一見心地よいのは「周囲の何よりも自分が優れている状態」かもしれない。
"自分が一番"である。
だが逆に「周囲のすべてが"自分よりどれも上"」という状態もある。
自分などは(最近)こういう状態に興奮を覚える。
つまりは「学びたい」ということなのだろう。
昔はそういう環境では劣等感しか感じなかったのに、年を取るというのは「そういう恥ずかしさ」には耐性ができてくることでもあると思う。
常に自分より上の精神的、技術的、経済的にある人と交わりたい。
そうした願望が、年齢と共に強くなってきた。
何故かは分からないが、逆の「自分が親分」といった世界にはいたたまれないような感覚も強い。
恐らく、もうそれでは自らが伸びないことが自分自身で分かっているからだろう。
成長しないこと、が恐く、またそんな環境を楽しんでいる暇もないのである。
年齢と共にリアルに変わる、そうした感覚を後進にも伝えて行く、ということも大事なことなのかもしれない。
組織は、そうした「自身の向上意欲と、組織チーム内でのお互いの共有・比較」のバランスが重要なのではないだろうか。
得意分野に突出した人に、周囲のスタッフが師事する。
そうしたいい関係を、一チームにどれだけ数多く作れるか、というようなことは、そのチームの"伸び率"に大いに関係してくるのではないだろうか。
最近そんなことをよく考える。
尊敬しあい、伸ばし合うチームは、恐らくどこまでも向上し続けるのではないだろうか。