藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

大人になるということ。

先日、「若いということはお金がないことである」、などと爺むさいことを言っていたら「では大人になるというのはどういうことですか?」とのコメントがあった。

大人になる、というのは「お金があるということ」だろうか、というと、そうではないと思う。
「若い」ということの"逆必ずも真ならず"である。

そう言われて、改めて「大人になる」ということを考える。
大人になる、とは
「落ち着く」
「動じない」
「分別る」
「我慢強い」

そんなことが良さ。
でもそれは
「ときめかない」
「足が重い」
「好奇心を失う」
「すぐに腹の内をみせない」

というような「老け」の灰汁のようなものを同時に発生していると思う。

自分は、年を取っていても、少々「落ち着きが無く、オタオタして、ある意味奔放で分別が無く、我慢せず言いたいことを言う」というようなタイプでいたいと思う。

大人になる、ということは格好いいし、重みがあるし、頼りがいがあるようである。
けれどそれと引き替えに「若さの燦(きら)めき」を失うのなら、大人になるのは死ぬ前でいい。
つまり若さ、というものにはそれだけの魅力があると思う。

五十歳、なんて年配者からみればまだまだ子供だが、けれどもう人生も半分を過ぎてい年代である。
そこで名実ともに「大人」に変わってゆくか、「若さ」にこだわるかという選択をしてみたいと思う。

いつまでも「若者の部類」に属していたいと思っている。