ほぼ日、糸井さんのブログより。
仕事をするとき。
特に「投資の決断」などをする場面。
そこで「できるのか?」を尋ねる人と、「やってみます」と発言する人の違い。
心配し、警鐘を鳴らす立場の人と、
針のむしろを覚悟で、「やりたいことにチャレンジする人」。
どちらも互いに悪意があるわけではなく。
その「どちら」に立つのか、はその人の性格や生育の環境によるのかもしれない。
自分は圧倒的に「やりたい側」である。
そのために、批判されたり、非難されたり、叱責されたり、馬鹿にされたり、ということもある。
ちくしょう、と思うけれど、残念ながら「企画段階」でこちらが言えることはあまりない。
そして、もしその企画が成功しても、それはある種の幸運であり、「どうだ、ほれみろ」という類の成功ではないのも、自分が一番知っている。
つまり、チャレンジするというのは、当人の満足度は高いのだけれど、非常に周囲に理解もされにくいし、また「土台リスクをはらんでいる試み」なので、賛同も得にくいものなのである。
けれど。
けれど「チャレンジ」なしには次の革新はないだろう。
そして、失敗して、怪我をして、借金を負って、ヒーヒー苦しい思いをして、それでいてまた、ちょっと体が休まったらムクムクと「こういう事、やりたいんですけど」などと言い出す。
それでも「そっち側」に立っていたいと思うのです。
ああ、人間性。
08月30日の「今日のダーリン」
・いろんなことやるときに、
「成功の可能性」を問われますよね。
特に仕事の場面ではそうだし、
このごろの社会では、
そういう傾向がもっと強くなってるみたい。
なんてことを前々から感じてたんですけれど、
ふと、野球の試合を観ているときに気づいたんです。
「野球の監督がやっていることって、
きっと企画書通らないぞ」ってね。だって、せっかくランナーが出たとして、
いちばん固いと言われている作戦がバントです。
貴重なランナーを得点圏といわれる二塁の送るのに、
バントさせたら、アウトひとつ分のコストがかかります。
いわば、経費をかけて二塁に送るという作戦です。
っていうことは、次の打者がヒットを打ってくれて、
1点取るという成果に結びついてくれないと、
アウトひとつまるまる無駄になるとも言えるわけです。
「その次打者は、必ずヒット打ってくれるんだろうね」
と、当然質問されます。
そのとき「ヒットの確率は、2割9分ほどです」と答える。
そしたら「えええっっ!」と顔色を変えられますよ。
「たった、たったの2割9分に賭けるつもりだったのか?」
「それでも、さらに次の打者もいますから!」
「しかし、キミ、次の打者は2割7分だぞ!
7割3分の失敗の可能性あるっていうことだぞ!」
と、反論されるでしょうね。
そんなふうに考えてたら、失敗しか考えられない。
これでは、野球、できましぇーん。
サッカーだったら、もっとすごいと思う。
「この選手は、どれだけゴールに成功したことがある?」
「前の試合にも、その前の試合にも
まったく得点できてないじゃないか!」とか、
言われてしまうかもしれない。
「成功します」なんて、だれにもわからないんですよね。
「失敗はしません」も、言い切れるわけはない。
でも、機会はつくれる、機会は増やせるはずです。
あらゆるものごとは、機会をつくることがすべてです。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やっぱり、たいした人だなぁって人は打席が多いんだよね。