藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

見えるとは何か。

自分の目の前にある、写真とか、設計図とか、報告書とか。
あるいは音楽(聞く方だけど)、絵画や造形物など。
「見えている人には見えている」ということがある。

例えばあるコンサルタント氏は、会社の決算書を見るとその会社の様子がなんと「浮き上がって湧いてくる」そうである。
薄っぺらい目で見ては薄っぺらく見えるものも、
ある眼力でみれば全く違ったものが見えたりする。
恐ろしいことである。
糸井さんも言っているが、

じぶんに「見えてないこと」のほうが大きくて豊かだ。

というこの価値観に尽きると自分は思う。
よく"気づき"などとも言うが、例えば今までは薄っぺらい「まだら模様でしかなかった地図」が国境と宗教をしったとたんに全く違う絵図に見えてくることもある。

大事なのは「今見えている世界が全てではない」ということを常に意識していられることなのだろう。
自分の知らない、気付けていないもっと違う何かが自分の身近にはいーっぱいある。
というのは結構素敵なことである。
エキサイティングじゃない、と思うのだ。

「絵描きには、ぼくらよりずっと多くのものが見えてる」
 と、すべておいての「目利き」のようにも見える
 小林秀雄が、どこかで言ってましたっけ。
 なんでもそうなんですよね。
 その道の専門の人は、ふつうの人よりも、
 ずっといっぱいのものが見えているんです。
 逆に言えば、ふつうの人の見えているものは、
 あんがい少ないものなんですよね。
 
 この、「見えてる分量の桁がちがう」感じって、
 よく見えている側の本人は、あまり意識してないし、
 見えてない側のシロウトは、気づいてないわけです。
 だから、そこに大きな差があることは、
 あんまり注意されてないのかもしれません。
 
 たまに、「よく見えてる」人が、
 なにげなく見ているものについて語ったりすると、
 「よく見えてないことに少し気づいている」人が、
 「おお、すごいもんだなぁ」なんて感心したりします。

 なんか、ぼくがやっていることって、
 「よく見えてないことに少し気づく」
 ということなんじゃないかと思っているんです。
 つまり、それは「じぶんが見えていること」よりも、
 じぶんに「見えてないこと」のほうが大きくて豊かだ、
 と知ることでもあります。
 これ、不勉強でいいかげんな人間でも、やれるんです。
 「じぶんの見えているもの」と、
 「よく見えている人の見えているもの」を、
 並べてみればいいだけのことですから。
 
 デジタルの時代、情報が氾濫している時代には、
 なんでも拡大したり集積させたり、解釈しやすいから、
 誰でもが「よく見えてる」と思いこみやすいのですが、
 そこんところが、目玉をつまらなくさせちゃうんだよな。
 画家にしか見えてないものもあるし、
 閑人や、阿呆にしか見えてないものもあるんだよね。
 ぼくらの世界は、よく見えてる人だらけで、
 ぼくは、いつまでも見えてないことだらけで。
 だから、「ほぼ日」はいつまでも続いちゃうんだよなー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あんまり雨を見ない梅雨どき。明日で「ほぼ日」は15歳だ。