藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

哲学という熟成。

アベノミクス、などと言い。
なんと近所のカフェでも景気のいい不動産屋の話が聞こえてくる。
「もう、六本木で100億。ただモノがなくてさあ。何かない?」とか。
あまり「そういうの」って続きないと思うのだが。
それはともかく。

バブル期を過ごした先輩に「俺はもう物欲はなくなった」と聞かされたものである。
ないものねだりで、ない時には「欲しい」と心を占めていたものが、実は所有してしまうとそれほどのものではないという教訓。
さらに、また所有すればするほどさらに所有し、管理し、使用し、ということが付いて回る。

そんなわけで、お寺の住職ではないが「所有すること」は同時に「しがらみ(柵)」を持つことであり、だから「最も自由なこと」は「何も持たぬこと」になる。

自分たちは出家でもしていない限り「そんな気分」にはなりにくいものだけれど、何だか年もとり、また数10年先なども想像したりすると自分の価値観が「所有と安定」などにあるのか、それとも「自由と偶然」にあるのか、これから自分はそのどちらを指向してゆくのか、などということがとても気になる。

富を数えながら死にたくなどないし、かといって完全に風来坊になるには「生活スキル」が無さ過ぎる。
思考が成熟する、ということはそうした「自分のこれからの価値観」がピシッと定まってふわふわしないことを言うのだろう。
昔のじいちゃんばあちゃんはそうだったと思う。
戦争とか「絶対的に辛いこと」のない時代に生きて、何をよりどころにできるのか、できないのか。
そんなことをテーマにする時代に入っているのだと思う。
それはそれで多様性ということなのではないだろうか。