藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

死生観。

仏教では生まれ変わり、再びこの世に帰るのは苦行なのだという。
血液型信仰よろしく「あの人の前世は・・・」という表現はよく聞くが、何の根拠もない。
そういったことを言って「現世の人間たち」が今の自分のステータスを意味づけようとしているに過ぎないことは、少し冷静になって考えてみれば分かる。

思えば「相手には絶対に分からないこと」を断定的に論ずることでそれを職業にしている人というのがいる。
自分の余命とか、自分の来世とか前世とか、死後の世界とか、「分からないこと」を商売にする人は「それを批判する人」を批判する。
そりゃそうだ。
商売が成り立たなくなるもの。
しかもこちら側には「絶対に見えていないもの」が、あちらにも「絶対見えない」とは言えない。
あちらが「私には見えています」といわれれば多少の動揺も生じるというものである。
将来や、自分への不安というのは誰もが持っているものだから当然である。

人は脳が発達しているからごちゃごちゃ考えるけれど、多分死んだら「生物から物質」に変わり、「ただなくなるだけ」である。
生きている人間たちが、やれ怨念がとか霊がとか、死後の世界はとか来世は、と意味付けしているだけである。
その意味付けは「現世の生活に必要だから」なされている。
人間は「死後の意味付けを求める」局面も多いのである。
辛いこととか、理不尽なこととか、あるいは幸せなことでも「その先」を案じずにはいられない。
宗教というのもそうした心の縁(よすが)を求める、人間の心の現れなのだと思う。
生と死は一対であり、どちらか一方だけが存在し得ないし、またどのような最期を迎えるかを考えながら今を生きる、という燃焼のしかたが(しっかりと生きる上では)重要なのに違いないだけである。
生にも死にも、必要以上に「現世の人たち」が意味を持たせようとするからごちゃごちゃになるのではないだろうか。
考えるべくは「今と将来」だけでよいと思っている。

ブータンに行っている為末大さんが、
 ツイッターで、こんなことを記していました。
 <日本では死ぬことは良くないことだ
  というのを前提に、医療も、
  様々な社会システムも発展している。
  生きていることは最も善いことであると信じて
  人は長生きをする。>
 もともと、死については語りにくいものがありますが、
 死を「良くないことだ」という以外のことを言うのは、
 「じゃ、良いことなのか?
  良いことなら、死を歓迎するのか?」
 と問い詰められそうな雰囲気があります。

 良いも良くないも、死は、山や海のようにあるもので、
 良いだの悪いだのの考えは、後からつくられたものです。
 ごく単純に、ぼくにも死はセットされているし、
 あなたにも、誰にも、死が必ずくるわけです。
 生まれるということと、死ぬということはひとつです。
 しかし、ぼくらは、生きている間は、
 生きているものの世界しか知りませんし、
 生きている世界にたっぷりの未練もあるので、
 死ぬ時がくることを、いつまでも待たせようとします。
 そして、やがて、そのうちには、
 死は「良くないこと」とされていくのでしょう。
 
 生きようとしても、死んでしまう。
 これは、あたりまえの事実なのに、
 目的が実現しない失敗のように扱われてしまう。
 ぼくらは、そういう「気分」のなかに生きています。
 死を怖れることも、死から逃げようとすることも、
 おそらく自然なことなのだと思うのですが、
 生に対して死がやってくることを、
 良くないこと、悪いこととするのは、逆に、
 一生というものへの冒涜のような気がするんですよね。
 
 殺処分の順番が早く回ってきそうな老犬が、
 「ミグノン」にきて、死を迎えることがよくあります。
 かつて友森さんが言った、
 「わたしがいないときに死んでもいいんだよ」
 ということばが、ずっと忘れられません。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
死んだ者の世界から、こっちへの視線を想像してみる‥‥。