藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

目録を作れるか。


ある人が亡くなった後、当人にとっては一体何が財産だったろうか。
金銭的な物については、生前に子供なり後継者なりと話し合うしかない。
希望的な観測だけで法律や紙に頼ってもなかなか故人の思い通りにはならないものである。

やっぱり自分にとっての財産目録を作るしかない。
色んな意味で。
良くも悪くも自分の辿ってきた軌跡とか、人間関係とか、失敗とか成功とか感謝とか。
(失敗談はいいネタになると思うけど)
何となく先立つ人が「心の残りで」というのは、当人のそうした表現が十分ではないからだろう。
自分の目録に、自分の伝えたいこととかお金とか、生前考えていたこと(生きていたらいま考えていること)とかを著わしておかないと前提が曖昧になるから。

特に"失敗の箱"はあまりに恥ずかしいので、自分の死後に空くような工夫もしておきたいものだ。ん。
(この目録の残し方だけでも大したテーマになりそうだ。誰もがこういうことを習慣として取り入れてはどうだろうか)

で、伝えたいものがはっきりすれば、あとはもう「後世の話」である。
大体先輩とか親兄弟とかが真面目に話したことは、継ぐ側も真面目に聞くものだが、それも受け側の気持ち次第。
莫大な金融資産を寄付しようが、私的に費消しようが、またその他のいろんな経験則も学ぼうが捨てようが、それはもう勝手にしてくれだ。
「伝えるもの」とその中身をはっきりさせれば、それこそ往生できようものではないか。

足跡を残す、とよく言うけれど「自分の証」がその人なりの表現で記せていれば、それで残す側はゲームオーバーだと思うのだ。
老後の資産を使い切るかどうか、とかどれだけ残すかとか、自分がどんな終生を迎えたいか、とかをできるだけ表現しておいて、あとは天命というものだろう。

なかなか詫び寂びを以心伝心、とはいかない味気ないことだけれど、世代間の話し合いというのはいつの時代も最も難しいテーマだとも思うのである。
そんな意味でもブログってなかなか役立つツールだという気がするのですが。

老後の資産、使い切ってニューヨーク・タイムズ・ニュースサービス
2015年2月22日17時16分
仕事を引退した後、残りの人生はいつまで続くのだろうか。手持ちのカネはいつまでもつのだろうか。わからない。それでも、リタイアした人でも子どもがいれば、彼らの多くは何らかの資産を残してやりたいと思っている。子どもたちの側は、そんなことを期待していなくても、である。

* NYタイムズ 世界の話題

 親からすれば、資産を残すことは愛情であり、寛大さであると思っているのかもしれない。しかし、視点をずらしてみると、そうした愛情の注ぎ方は愚の骨頂かもしれない。
 子どもを育て、学校に行かせ、独り立ちできるまでの期間に6ケタ(数十万ドル)ものカネをつぎ込んできた親たちは、そのうえ次の世代に遺産を残す義務があるなどという感覚は捨て去るべきだろう。もっとも、最近は成人してもまだ経済的に独り立ちできず、親がかりのヤングアダルトが増えているのも確かなのだが……。とにかく、退職金は家族との意義深い思い出づくりのためとか、老後をより快適に―できれば自宅で―過ごすための資金に使ってしまう方がいい。
 とすれば、中年期に達した子どもたちは、どのようにして親を納得させて解放してあげられるだろうか。
 まず、世代間の断絶という問題に注目してみよう。昨年、「The Gerontologist(老人学研究者)」という専門誌に載った論文がある。テキサス大学人口調査センターのポスドク(博士号取得後)研究員キュンミン・キムと同僚4人の連名による論文で、高齢のアメリカ人と彼らの成人した子どもを対象に、資産を残したいか、あるいは遺産の相続を期待しているかについて、コンピューターの双方向通信機能を使って意見を調査した。
 その結果、59歳から96歳の親たちは、その86.2%が子どもたちに何らかの資産を残したいと思っている。一方、40歳から60歳の子どもたちのうち、遺産を相続したいと思っているのは44.6%だった。最も悩ましいミスマッチは、親には資産を残す意思が無く、子の方は遺産相続を期待しているケースである。ただし、そういうミスマッチは全体の2.4%しかいなかった。
 遺産問題について研究する経済学者たちは、二つの領域に焦点を当てる傾向がある。その一つは、子どもたちを育て上げるのにどれだけ尽くしたかどうかにかかわらず、次世代に対する親の道義的な責任感情が絡む点である。成人した子どもたちの一定数は、親というのは元来そういうものだと考えているらしい。キムたちの研究によると、成人した子が年老いても健在な親から金銭的な援助を受けているケースだと、親の死後の遺産相続を期待する傾向がより強いという。どう? 思い当たる人はいませんか。
 もう一つの領域は、ギブ・アンド・テイクが関係する問題だ。親は、老後の世話をしてくれた子どもに対しては、遺産の形で応えてあげたいと考える。また、自分たちが望む世話や振る舞いを期待して、子どもたちに遺産の件を巧妙にちらつかせる親がいるかもしれない。しかしながら、キムたちの研究によると、親の老後を熱心に面倒をみて支援する子どもたちは、親が資産を残してやりたいと思っているとしても、逆に相続を期待していないケースが多いという。
 ただし、イエスかノーかの回答形式による調査には、限界があるのも事実だ。多くの親は、たとえささやかであれ、何らかの資産を残したいと願っているかもしれないが、子どもの側は格好をつけて、遺産相続なんて期待していないと本心を偽っているかもしれない。それに、遺産は何もいらないと言っているとしても、まったく欲しくないわけでもないだろう。
 いずれにしても、遺産をめぐる世代間の考え方の相違はとても解消しがたい。キムは、それはファミリーの古くて新しい問題だという。年配の世代がより旧式な対応に傾きがちだとすれば、子どもたちは自分の世代に何らかの資産を残してやりたいなどと考えないようにと親を説得し、気持ちを楽にさせてあげるのが役目ではないか。
 だから、私はこう言いたい。父さん、母さん、あなたたちの愛情、日常の会話、休みの日に共にする食事、あなたたちの孫の世話……私はそれ以外に何にもしてくれなくて十分満足ですよ。残っているおカネがあったら、それは老後の健康や親しい友人たちとの思い出づくりに使い切ってください。
 さて、成人の読者諸氏。私の提言にご賛同いただけるなら、この週末、ご両親にそう打ち明けてみてはいかがですか。(抄訳)
(Ron Lieber)
(C)2014 New York Times News Service(ニューヨーク・タイムズ・ニュースサービス)