藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ナイスなバカに。

糸井さんのブログより。

こうして、毎日毎日、「ほぼ日」になにか書いている。
この他にツイッターでも、しょうもないことを言ってる。
(中略)
これだけたくさん語っていると、
どんなにりこうぶっても、ばかがばれてしまう。

まったく。
糸井さんと自分を比べるのは恐れ多いけれど、でもそう思う。
毎日ブログとか書いていると本当に自分の「底」が見えてしまう。
他人様が読んでいればなおさらである。
スピーチはいい。消えてなくなってしまうから。
文章はキツい。
言葉遣いにしても、書いている内容の論理性やら科学性やら知性やらにしても。
あるいは思想とか思考能力とか人の器とか。
テキストで残ってしまうから、ある日だけちょっと利口なことを書こうとして、たまたまそんな風に書けたとしても毎日は続かない。

よくはだかで街中を歩いているような錯覚を覚える。
でもそりゃ自意識過剰というもので、第一それほど読者もいないから、あえてはだか踊りを敢行しているというのが偽らざる心境である。

実物大のぼくが、どういうものであるか、
すっかりばれてからが、ぼくの勝負であると言っていい。
(中略)
ただ、ずっと同じばかでいるよりは、
そこから、もっとナイスなばかになりたいとか、
ここらへんは、ばかのままじゃ迷惑がかかるなとか、
努力というようなものを始めたり、
勉強してみようかとかいう気になったりするわけだ。

まずはだかになって人前に出ないと、ずっと「衣」を着けたままになる。
だから少々贅肉が付いていたり、醜い姿だったりしても誤魔化せると思ってしまう。
自分の誤魔化しは、はだか踊りよりも恥ずかしい。
だからはだかで踊っているわけだけれど、「そこ」から少しでもできることがあるのなら…とも思っている。
裸一貫、というけれどまさにそれだ。
素の自分ありき、ということを自分に戒めないと、どうも色々と虚飾しようとしてしまう。
見栄が見栄を生む。
さらに見栄と本当の自分の見分けがつかなくなり、挙動が怪しくなってくる。
虚飾人間である。

張りぼてで実力以上の見かけを装うのは、傍から見れば相当見苦しい状態だろう。
というわけで「ばかがばれてからこそが自分」というフレーズに著しく共感してしまった。
もうどんなに見苦しくてもはだか踊りが平気になってしまっては本末転倒だけれど。
だから今日もはだかで踊っている。
ああいつかははだかでも美しくなれるだろうか。

<ばかがばれてから>

 こうして、毎日毎日、「ほぼ日」になにか書いている。
 この他にツイッターでも、しょうもないことを言ってる。
 対談も、ずいぶんたくさんやってきた。
 声で、あちこちでしゃべっていることもある。
 取材を受けて、あれこれ語ってもいる。
 
 これだけたくさん語っていると、
 どんなにりこうぶっても、ばかがばれてしまう。
 もっと奥深い人物だと思われたいとか、
 なかなかの教養人、のふりをしていたいだとか、
 みごとな表現者であるとか、
 ああ見えてたいした男ですよ、であるとか、
 どういうふうに取り繕っても、もう遅い。
 ばかは、すっかりばれているのである。

 実物大のぼくが、どういうものであるか、
 すっかりばれてからが、ぼくの勝負であると言っていい。
 多少でも「まし」なところがあるとしたら、
 もともと持っていたものなのか、
 それともばかが少しずつ身につけたものなのか、
 どちらかであるというわけだ。
 どのみち、たいしたものじゃぁない。
 
 謙遜しているのではないことは、
 ぼく自身もちゃんとわかっているし、
 ぼくの書いたり言ったりしていることに
 ずっとつきあってくれている人なら、わかると思う。
 これだけ大量に、ひっきりなしになにか言ってると、
 もういまさらごまかしようもないから、
 ばかがばれていることについて、あきらめられるのだ。

 ただ、ずっと同じばかでいるよりは、
 そこから、もっとナイスなばかになりたいとか、
 ここらへんは、ばかのままじゃ迷惑がかかるなとか、
 努力というようなものを始めたり、
 勉強してみようかとかいう気になったりするわけだ。
 そう、つまり、ばかがばれてから、こそが、
 ぼく自身のつくってきた、ぼくというものなのである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
それでもまだ、ごく自然な見栄でばかじゃないふりもする。