藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

じわっと

「教養の積み重ねが創造をうむ」というのは平山画伯の言葉だった。
量が質に転嫁するのだ、と直感するが逆に量を積まねば創造は容易には生まれないということでもある。

最近の大学教育は、即戦力の人材を送り出すことを重視し、専門教育偏重に陥っていたのではないか。この反省から、教養教育の再評価が始まりました。
私が所属する東工大リベラルアーツセンターは、まさにそのために設立されました。

まず教養課程で学ぶこととか、そもそもその大学では何が目的かとか、卒業するときにはどのようなイメージになろうとか、各大学はそれなりに努力しているのだと思うが今一つはっきりしないのも事実である。
だから自分も含めて「大学は経済でしたが特に何も残っていません」ということになるのは日本の大学の特徴なのだ。
そして就職試験の時にあわてて「何してたっけ?」と考える本末転倒ぶりだが、後から考えてみると勉強だけしていて許される時期は二十歳そこそこで終了である。
学者になってももう好きな物を何でも好きなだけ、やりたい放題に出来る時期は来ないわけで、老後になって振り返るよりも「そうか」と今気付く人が増えて欲しいものである。
勉強だけでなくもっと別の何かにひたすら打ち込む、というのもアリだと思うしともかく何かに使わなければもったいない。
「もし今から大学に行くとしたら」という話題が年長者の間で盛り上がるのは、まさにそういうことなのに違いない。
次に時間ができるのは定年後なんだから。

大学で学ぶ教養とは
2014/6/16 3:30日本経済新聞 電子版


日本経済新聞に連載中の福地茂雄さんの「私の履歴書」6回目(6月6日付)に、次のような記述があります。長崎大学の学生だった頃についての回想の部分です。
「近年は大学で一般教養を教えることが少ない。ここで学ぶ心理学や論理学、社会思想史に代表されるリベラルアーツはすぐには役に立たない。ただ人生にじわりと効いてくると思う」
ああ、福地さんも、同じように考えていらっしゃるのだなあと感じ入ったものでした。
■教養教育の再評価広がる
「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」
これは慶応義塾の塾長だった小泉信三さんの言葉です。逆に言えば、すぐには役に立たないけれど、まるで漢方薬のように、じわじわと効いてくるものもあります。それが教養というものなのでしょう。
そんな「すぐには役に立たない」リベラルアーツの教育を担当してほしいと依頼され、東京工業大学で教え始めて3年目を迎えました。「すぐには役に立たない」だけでなく、ずっと役に立たないことを教えているのではないかとの忸怩(じくじ)たる思いを持ちながら、学生諸君に向き合っています。
最近の大学教育は、即戦力の人材を送り出すことを重視し、専門教育偏重に陥っていたのではないか。この反省から、教養教育の再評価が始まりました。
私が所属する東工大リベラルアーツセンターは、まさにそのために設立されました。
また、京都工芸繊維、京都府立、京都府立医科の3大学は、国立や公立の枠を超え、この4月から共同で教養教育を始めました。
3大学は、それぞれ規模が小さく、提供できる科目に限りがあるため、互いに科目を提供し、学生の選択の幅を広げました。従来も、単位互換によって他大学の科目を履修することは、全国各地の大学が取り組んでいますが、3大学は共同の教育施設を建て、そこで一緒に学べるようにしたのです。
その目的は、「文系、理工系、医学系の専門分野や将来の志望の異なる三大学の学生が授業で混在し、多様な視点や価値観を交流して、一緒に学ぶ学修空間を創り出すこと」(京都三大学教養教育研究・推進機構のウェブサイトより)。
教養教育の大切さを強調する大学が増えているのです。
■多様な知識、ビジネスで威力
このところ書店の店頭で目立つのは「教養」を冠した題名の書物の多いことです。『文芸春秋』7月号も「いま日本人に必要な『教養』とは何か」という特集を組んでいます。まさに「教養ブーム」です。
この中でフランス文学者の鹿島茂さんは、大学で教養を学ぶとは、方法論を身につけることだと説いています。ヤマト運輸小倉昌男さんが吉野家の牛丼をヒントに個人宅配を考えついたという例を引き、「他分野のやり方を応用することで画期的なイノベーションが生まれることがある。教養とは多分野の方法論を学ぶことなんですね」と語っています。
多様な知識や方法論を学生時代に習得する。そういう教養があるからこそ、ビジネスで威力を発揮できる。これぞ教養の効用なのです。
と書いていて、ふと気づきました。私は「教養は役に立つ」と強調してばかりではないかと。実に教養のないことです。