藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

本当の教養は必要でしょう。

冨山和彦さんのそれ、会社病ですよ。から。
物事を右か左か、両極端で考えると判りやすいが、実は正解には至らないものである。
世の中はまだら模様で、全く整然と並べられてはいないから、いつも理論と現場はかい離している。

コラムでは冨山さんは「大学のほとんどを職業訓練校にせよ」という。
それにアカデミズムが反駁する。

実践力か教養か。

欧米のビジネススクールも結局それで逡巡しているのをみても、簡単にどちらかに結論が出るテーマではない。
どちらも必要なのだ。別次元で。
インスタントに経営実務だけを得ようとするからビジネススクールは凋落したし、けど一般教養だけでは現実感に欠けてしまう。

もちろん本当にアカデミズムを学生が追求できる大学もあっていい。しかし、それはグローバルで競争できるレベルでなければなりません。

日本の文科系学部は結局「本気度」を見失っているのじゃないだろうか。
文学部や経済学部や法学部を修了した人が、その分野で一角の見解や意義を生き生きと語れずして何の学問だろうか。
冨山さんの言う「職業訓練」に異を唱える前に、まずは自分たちの存在について相対的に考えてみることを大学自身がやらねばならないのだと思う。
「行きたい大学がない」という今の状態はこれまでの大学教育が危機に瀕していると認識すべきだろう。
ようやく五十歳にしてそんなことを思うのでした。

簿記もできない日本の大卒者
大学のほとんどを
高度職業訓練校に

事務所の会計処理をめぐって、大臣が辞任するなど、またしても政治とカネの問題で騒ぎが起きました。どうしてこんなことが起きるのか、背景にはモラルの問題もありますが、一方で単純に会計処理能力の問題も大きいと思っています。
 事務所の会計は単式簿記レベルですから、難しいはずがない。ところが、それすらできない。おそらくスタッフは大卒者でしょう。裏を返せば、大学を出ても簿記のひとつもできない人が多い現実がある、ということです。
 折しも私は、文部科学省の実践的職業教育をテーマにした有識者会議に呼ばれました。第1回の会合に都合が合わず、持論を書いた資料を提出したのですが、これがネットに公開されたことで、ちょっとした炎上騒ぎになったようです。
 会議のテーマは、平たくいえば専門学校をどうするか、ですが、問題の本質はそこではないと思っていました。なぜなら、専門学校は自由競争が進み、ダメな学校は淘汰されていきます。いい専門学校の卒業生は就職率も大学より高い。だって簿記などの実践技能を身につけているから。それより日本の多くの大学こそ、高度職業訓練学校になるべきだと思っていたのです。
 文学部ではシェイクスピアを学ぶのではなく、観光業で必要な英語や歴史・文化の名所説明力を学ぶ。経営学部ではマイケル・ポーターの戦略論ではなく、簿記・会計とそのソフトの使い方を。法学部は憲法、刑法でなく、宅建や大型第二種免許を取得させる。工学部では機械力学や流体力学ではなく、トヨタで使われる最新鋭の工作機の使い方やウェブ系プログラミング言語の習得。要するに、学問より実践力です。

ところが、これにアカデミズムの人たちが噛(か)みつきました。大学をいったい何だと心得ているのか、と。弊社にも某大学の教授から電話がありました。しかし、多くの学生が本音で学びたいのは実践力でしょう。なぜなら、社会ですぐに役立つし、就職にも有利だから。社会の側も平均的な学生に期待するのは実践力です。実際、一部の私立大学ではこのシフトに取り組み、就職実績も偏差値も上がった学校があります。
 多くの大学でこのシフトが進まないのは、実務訓練を見下しているから。おかしなプライドが、役に立たない学生の大量放出をもたらしている。大学は専門学校を下に見ますが、実は早稲田だってもとは専門学校としてスタートしている。誰も求めないことをやり続ければ、大学は教授陣や事務員の失業対策所、と思われても仕方がない。
 もちろん本当にアカデミズムを学生が追求できる大学もあっていい。しかし、それはグローバルで競争できるレベルでなければなりません。理系なら世界一の技術開発、文系なら世界のルールを日本に有利に決められる人間の輩出です。しかし、アメリカだってイギリスだって、そんな学校は数えるほどしかない。日本も、せいぜい数%。東京の大学でも4校程度でしょう。
 正直、これほど騒がれるとは思っていませんでした。裏を返せば、そこに問題があるから騒ぐ。どうでもいいならスルーするはずです。これで、ひとつアジェンダ設定ができました。今後いろんな議論が起これば、と思います。