藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

学生、が目的ではないこと。

中学生のころ沸々と湧き上がり次第に大きくなっていった疑問。

もともとなんで義務教育なのか。
なんで成績が良くなくちゃいけないのか。
学びは競争なのか。
学ぶって必要なことなのか。
何か役に立つのだろうか。
大学まで学べば、学びは終了なのだろうか。

当時そんな疑問に端的に答えてくれる人はいなかった。
質問もしなかったし。
大学に行っても、なぜ経済とか政治とかを学ぶのか、とかいうことにはっきりとした意味はまるで見出せなかった。
今なら大体の答えは見えている気がする。
時大分遅し。(嘆)

社会に出てから自分の無知に気づき「こりゃいかん」と実感したら「学ぶ意味」なんて理屈をこねている場合ではなくなった。
リアルの社会と自分の知識があまりに乖離していると気づいたら、もう「何のために」なんて言っている暇はない。
「ヤベェ。俺何にも知らねぇぞ!」と思い知ったらつまらない疑問も消えていた。

さらに何と学問は最高の趣味である、という先輩もいる。
「学ぶってそんなものだよ」というニュアンスを義務教育世代に伝えるべきではないだろうか。
「だから、無理に興味の向かない科目で"得点を上げることそのもの"を目標にしないほうがいい」と思う。
得点自身が自己目的化してしまうと、学ぶこと本来の意味が消し飛んでしまうこともある。

教育って中身の知識よりも、そんな「学びの楽しさ」を伝えることのほうが重要なのではないだろうか。
いろんな教育の科目は、そんな"学びのきっかけ作り"で十分なのではないかと思う。

そうか。「動機付け」って本来そういう意味なのか。
学問も仕事も恋愛も全てここから始まる。

ほぼ日より。
・ずっと長いこと、
 学生という人たちとつきあうのが苦手だった。
 ぼくの勝手な偏見だったかもしれないし、
 学生たちとの出会い方も、あんまりよくなかったのか、
 どうも、あんまりいい印象をもっていなかった。

 ところが、ここ数年の間に、
 「APU(アジア太平洋大学)」の学生や卒業生と
 いろんなことで会うようになって、
 なんだか学生っていいなと思うようになっていた。
 いろんな国の人たちがいて、
 それぞれの文化や環境のちがいを感じながら、
 理解しあって、じぶんの考えを組み立てようとしている。
 そんなふうに見えた。
 それと、なにより、とても勉強熱心に見えた。
 
 今回は、沖縄の「OIST(沖縄科学技術大学院大学)」に、
 早野龍五さんの講義のおまけで行っていたが、
 ここでも、強い「勉強熱心感」みたいなものがあった。
 「学校は学ぶところ」と納得できてる感じなんだよなぁ。
 ぼくの長年の偏見によれば、
 学生はちゃらくて当たり前だったのだが、
 ぜんぜんそうじゃないんだよね。
 そういえば、ここも国際的な学生たちの学校で、
 外国人学生の数のほうが圧倒的に多かった。
 
 よく知らないのに言うわけにはいかないから、
 日本の大学生と比べてどうのこうのは言わない。
 ただ、ぼくの「学生観」を変えてくれたのは、
 いろんな国の人たちが混じって学んでいる学校の
 学生たちだったということは言えそうだ。
 
 もし、じぶんが、いま18歳くらいだったとしたら、
 大学に行きたいと思うだろうか、と考える。
 うん、そうだなぁ、行きたい学校を探すんだろうな。
 偏差値とか有名とかにとらわれずに、
 どういうところで、どういうふうに生きたいか
 というあたりのことから逆算して、考えるかのかな。
 いや、そこまで考えることのできない18歳なのかもね。
 じぶんのダメさは、よくおぼえているもんなぁ。
 
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「学ぶが憧れ」ということ、いまでもちゃんとあるんです。