藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

行動の方程式は…

見た目がきれいかどうか、と心がきれいかどうかの関係。の話だった。
結局のところ有事の判断とか、究極の判断とかがいい人かどうかを決めるのだと思う。
割と早い段階で自分本位に動く人もいれば、ギリギリ自分の身を切る寸前まで我慢したり、人のことを考えたりする人もいる。
自らが犠牲になることをいとわない人もいる。

どのような条件の時に、その人がどのような判断をする人か。
結局それってその人の倫理観ということにもなる。

厄介なのは、他人の目からはその人のその「判断に至ったプロセス」とか「理由」がいつもはっきりとは見えないことである。
だから誤解を生むし、言い訳も生む。
人は偏極して他人を見ることもあるし、自分の行動を正当化したりし易い。
だれしも心の負担を軽くしたい、というのは無理もないことだ。

どのような時に天使のふるまいをし、鬼の判断を下すのか。
いちいち「私はこの場合にはこうします」と予め他人に説明できないけれど、自分たちは日常、「営業部長は血も涙もないから、多分クビだな」とか、なんとなく過去の経験とか人となりを見てその人を判断している。

けど、ほんのちょっとした条件が変わると、真反対のふるまいをしたりもする。
盗賊改め方の鬼平さんではないが、「いいこともするし、悪いこともする」のだろう。
人の心を深いところで読むのは難しい。
だから「あの人はいい人、悪い人」のテーマはまだまだその方程式は解き明かされず、当面社会の話題になり続けるだろう。
何か条件付けが「場合分け」されてパターン化することができれば、それこそが性格分析として(血液型どころじゃない)面白い物になるのに違いないと思うが。

ぼくが小さいころのマンガでは、
 ふとった人は、「お人好し」ということになっていた。
 マンガばかりじゃなく、映画やテレビ番組でも、
 ふとった人はおおらかで、ほがらかないい人だった。
 ぼくはやせていたので、ふとりたいなぁと思っていた。
 いまでは、そんなイメージは持っていないけれど、
 こころの奥のところで少々のつらい気持ちを持っていた。
 
 そういう感じで、いまさら思ったことがある。
 「人を見た目で判断してはいけない。
 人の価値はこころのきれいさで決まるのだから」
 という言い方を、あらゆる場面でされて人は育つ。
 この考えは、おそらくまちがってはいないのだが、
 ちょっと妙な落とし穴に誘導されてしまう。
 仮に、見た目で判断された美男美女が、同時に、
 きれいなこころの持ち主であるということはないのか。
 それは、おそらくあるだろうよ、いくらでも。
 「人を見た目で判断してはいけない」という条件は、
 見た目のよろしい人にとっては、おそらくハンデだ。
 さらに、見た目でよろしくないとされた場合には、
 「こころのきれいな人の組」に自動編入されるのか。
 なんとなく、へんなものだなぁと思ったのだった。
 
 さらに、実はもっとわからないのは、
 「口の悪い人は、ほんとはいい人」という法則。
 どう考えても怪しいだろう、それは。
 悪いことを言わないように自制できている人が、
 「ほんとは悪い人」と思われやすくしてはいないか。
 口が悪くなくて、しかもいい人のほうが多いよ、
 ぼくの知っているかぎりでは。

 そもそも、「こころがきれい」とか「いい人」って、
 どういうことなのだろうか、とも思う。
 自称「こころのきれい」な人に、
 かなりきれいじゃない仕打ちをされることだってある。
 「いい人」がけっこうひでぇことをする場合もある。
 そういう意味じゃ、口の悪い人っていうのは、
 いい場所に住み着くのが上手なのかもしれないけどね。
 いやぁ、結論があって書きだしたことではないのだけど、
 人間社会って、まるでサッカーのフィールドだねぇ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
牽制、反則、抗議、作戦、必死‥‥社会も競技場みたいだ。