藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

今年から「セイジ・オザワ松本フェスティバル」と名前を変えた小澤征爾さん主催の夏フェス。健康が優れない小澤さんの代役を務める重責と、フェスのこれまで辿ってきた歴史が端的にまとまっている。

オペラのプログラムが多いなあと思っていたが、小澤さんが二十年余りをかけて培ってきた土壌がリーダー不在に喘ぐ様子は寂しい思いがする。
指揮者のリーダーシップというのはアマチュアには分かりにくいものだけれど、記念フェスそのものの伝統とか歴史づくりにはオーケストラ以上の求心力がいるものらしい。
カリスマの力とそれに頼る脆さというのはどの世界にも共通の悩みなのだ。

セイジ・オザワ松本フェスティバル 波乱の幕開けながら、強烈な存在感
2015/9/12 6:00

 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(1992年発足)から「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に改名した初年度は、波乱の幕開けとなった。フェスティバル創立者で総監督の国際的指揮者、小澤征爾が直前に骨折してオペラの指揮を降板した。9月1日、傘寿(80歳)を祝うバースデーコンサートでは指揮台に立ち、健在をアピールしたが、6日のオーケストラ演奏会で1曲だけ指揮する交響曲は、ブラームスの第4番から比較的負担の軽いベートーヴェンの第2番へと差し替えた。


 「サイトウ」とは桐朋学園大学音楽学部の前身、子どものための音楽教室を敗戦直後の東京に開いた斎藤秀雄(1902〜74年)のこと。日本の音楽教育に大きな足跡を残し、小澤のほかに秋山和慶(指揮)、内田光子(ピアノ)、中村紘子(同)、前橋汀子(ヴァイオリン)、今井信子ヴィオラ)、堤剛(チェロ)、岩崎洸(同)、東京クヮルテットらを世界に送り出した名教師である。
 没後10周年の84年、小澤と秋山が斉藤門下の演奏家を集めて指揮した「桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラ」が87年の海外公演と前後して「サイトウ・キネン・オーケストラ」に改称。92年にサイトウ・キネン財団が組織され、松本での音楽祭が始まった。オーケストラもフェスティバルも斉藤の生前に存在したわけではなく、すべてが没後、恩師への小澤らの思慕の念から誕生したものだ。四半世紀近くを経て、オーケストラのメンバーで斉藤の直接の生徒は減り、大半は孫弟子か小澤の音楽を慕う世界の名手だ。
■80歳を機に名称を刷新
 2006年以降の小澤は帯状疱疹(ほうしん)、食道がん椎間板ヘルニア……と次々に病に襲われ、「世界のオザワ」と呼ばれた時代の過密スケジュールの大幅な制限を余儀なくされた。闘病が一段落して80歳を迎えた今、自身の音楽をさらに究め、オーケストラやフェスティバルを最良の状態で次代へ引き継ごうとの決意は固い。フェスティバル名を「オザワ」に刷新し、オーケストラ名には「サイトウ」を残すリニューアルは、時宜を得たものだったといえる。
 半面、最盛時は何百万円かの出演料の本番を年100回近くこなし、数億円単位のキャッシュが回っていたスター指揮者の稼働率が大きく下がった現実も、背後には横たわる。フェスティバルの運営は小澤の健康面だけでなく、財政面でも大きな転機にさしかかっている。
■20世紀の傑作オペラを次々に上演
 92年初回の「エディプス王」(ストラヴィンスキー)に始まり、「道楽者のなりゆき」(同)、「火刑台上のジャンヌ・ダルク」(オネゲル)、「ティレジアスの乳房」「カルメル会修道女の対話」(プーランク)、「イェヌーファ」「利口な女狐の物語」(ヤナーチェク)、「ピーター・グライムズ」(ブリテン)、「ヴォツェック」(ベルク)など、首都東京でも集客が難しい20世紀の音楽劇を立て続けに上演し、高額チケットを完売できたのは、ひとえにカリスマ小澤の吸引力だった。以前は小中学校の夏休みの終わりとともに閉じていた松本の観光シーズンがフェスティバルのおかげで2週間延び、馬刺しやそばが中心だった終演後の料飲メニューもイタリアン、フレンチはじめ急激に国際化した。

ベルリオーズのオペラ「ベアトリスとベネディクト」
 今年も小澤は最も得意とする作曲家の一人、ベルリオーズが最後に書いたオペラ「ベアトリスとベネディクト」(1862年初演)を3公演指揮するはずだった。ベルリオーズのオペラ自体、日本ではほとんど上演されず、「ベアトリス…」も東京オペラ・プロデュースが1995年に日本初演、98年に再演(いずれも松岡究指揮、松尾洋演出)しただけ。小澤は84年に音楽監督を務めていたボストン交響楽団の夏の仕事場、タングルウッド音楽祭で指揮した経験があり、再び手がける機会を切望してきた。
 シェイクスピアの戯曲「空騒ぎ」に基づく全2幕のオペラは、ベルリオーズがオペラ・コミックと呼ばれる形式を唯一採用したもの。オペラ・コミックは歌、音楽を伴わないせりふが入れ替わり現れ、けっこう長い芝居の部分では指揮者が休める。ベルリオーズ自身がまとめた台本は原作の込み入った筋立てを大胆に刈り込み、すべてが、愛の成就した後の喜びといった回想モードか、つかの間の快楽や騒ぎを切り取るモンタージュの連続。厳格なドラマトゥルギー(作劇法)の論理よりは瞬間瞬間の音楽の才気、味わいに思い切って比重を置いている。現在の小澤の体調を考慮しつつ、その指揮芸術のエッセンスを味わうには、もってこいの選択だったはずだ。
■中堅の代役の背後に大物の存在感
 ところが8月はじめ、風邪をこじらせて検査入院した先の病院で入浴の際に骨折した。小澤は大事をとり、降板。オペラ指揮の代役にはタングルウッド指揮講習会の出身者でボストンを中心に地道なオペラ活動を展開、5年前に「ベアトリス…」を振ったことがあるというギル・ローズが急きょ招かれた。オペラの副指揮として今回の公演プログラムにも名前が載り、かつて代役を務めたことがあるピエール・ヴァレーでも、3年前の「ジャンヌ・ダルク」の代役指揮で絶賛を浴びた山田和樹をはじめとする若手でもない。50歳の中堅ながら日本では全く無名、初来日のスペシャリストを起用したのは意外にも思えた。
 8月27日、まつもと市民芸術館で中日の上演をみた。果たして序曲が始まった途端、「ああ小澤さんなら、ここのリズムはもっと弾むはず」「丁寧に複数の声部を浮かび上がらせる余り、テンポが間延びしてきた」「せっかくの名人オーケストラをもっと燃え上がらせて!」と、次から次に不満を覚える。聴けば聴くほど小澤不在の穴の大きさを痛感し、マエストロ(巨匠)への渇望が募った。いなくても強烈なまでの存在感を示し、名声を維持し得たのだから、すごいといえば、すごいが……。指揮者交代に伴うチケット代金の差額払い戻しも含め、通常の歌劇場の上演や音楽祭のあり方とはかなり異なる、松本の特殊性を浮き彫りにした。

ファビオ・ルイージが指揮した「オーケストラ・コンサートA」
 翌日、イタリア人ファビオ・ルイージが前年のオペラ「ファルスタッフ」(ヴェルディ)の指揮で熟知したサイトウ・キネン・オーケストラの潜在能力をフルに引き出し、疾風怒濤(しっぷうどとう)のマーラーの「交響曲第5番」で客席をノックアウトした。前夜のオペラとは余りに対照的なテンションの高さで、オーケストラもはじけた。しかしながら、ルイージは優秀な「能吏」、あるいは堅実な再現者であっても、小澤が持つ太陽のようなカリスマ性、大衆へのアピール力とは別種の世界に住む指揮者である。改称初年度にもかかわらずというべきか、初年度なればこそというべきか、フェスティバルの前途について、あれこれと複雑な思いがよぎる2日間であった。
 (電子編集部 池田卓夫)