藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

これでいい、という大人。

恋愛コンサルタント(実は婚活支援業ということらしい)を営む女史に聞いた話。
恋愛とは「非日常」なのだという。
結婚とかも含めて「非日常」と。
「でも結婚なんて超日常でしょう?」と聞くとそれがそうではないらしい。

もう、あり得ないような状況での恋愛経験も非日常なら、全く安定した平凡な結婚生活も非日常なのだという。
そういうご託宣を聞いていると、そもそも日常って何だったか…と改めて考え直してしまう。
ともかく、非日常という「今の自分とは違うシチュエーション」に人は憧れるのだという話だった。

そう言えば人は「自分の反対」に興味を示す。
それを「ないものねだり」と喝破した友人もいた。
日常が不安定なら安定を、
日常が裕福なら冒険を。
日常が幸福なら、ちょっとした挫折を。
そんな「過去の自分にはない状態」を自分たちは自ら心のどこかで欲しているのかもしれない。

日本という国の中の平和ボケ、と言われればその通りだという感じもするけれどどこか「日常の否定」への憧れを自分たちは持っているようだ。

日常と非日常の間をさまよっているうちに、実は「ないものねだり」ではない本当に望んでいるものを見つけている人に出会うととても羨ましい感じがする。

今自分にないものの刺激を求める感覚は、子供が次々に新しいものに興味を映す感じにどこか似ている。

今自分にないもの、とかではなく「本質的にこれでいい」というようなものに近づけるかどうか。

大人というのはそういうことを知っているような人だという気がする。
刺激とか非日常、というのは所詮「今の自分への刺激」でしかなく、本質ではないのではないだろうか。
本当の大人って、そうそう語れる夢なんて口にはしない人なのじゃないかと思うのだ。