藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

諸行無常。

アストロノーツ、山崎さんのコラム。
人の感覚ってどうしてこうダイナミックなものか、と思う。
例えば自分が友人に「そよ風の心地よさ。街灯や排気ガスさえ愛おしい」などと言ったら病院に連れて行かれるかもしれない。

けれど、宇宙にいた山崎さんが"ストーリー"を語る。
一気にリアリティが甦(よみがえ)り、心に沁みる。

(中略)
指先で壁を押せばすっと進むことも、宙返りが普通にできることも、寝袋の中でふわっと浮きながら寝ることも、日常と思えてくる。
宇宙で生活して一番意外だったことは、非日常と思っていた宇宙が、だんだんと日常になったことだった。

ストーリー(物語)の重要性をモロに感じる一文だ。

そして、地球に戻ると、今度は重力の大きさに驚く。頭に漬物石がのっているかのような重さ。紙一枚でもずっしりとくる重さ。そして、外に降り立った時のそよ風の心地よさ。草や木の香り、土の感触。何もかもが皆愛(いと)おしい。地上から離れ、無重量でかつ人工的な環境の宇宙船で過ごした後では、目の前のありきたりの景色や香りこそが、何より愛おしく感じられた。

当たり前と思っていたことは、当たり前ではない、とてもありがたい、ということを理屈抜きで感じる。忙しく過ぎていく毎日だが、この中にこそ、物事の本質や幸せが隠れていると思うと、日常の捉え方も変わってくるようだ。

何か高僧の説法を聞いているような気分がする。
(多分行くことはないけれど)もし自分が宇宙に滞在したなら、おそらく「そんな境地」に至れるのかもしれない、ということをありありと感じることができる。
疑似体験。
そういえば、和尚さんの説法って昔からそういう物語性が必須だったのじゃないだろうか。
千年たっても「原則って変わらない」ということだろうか。

日常と非日常の間で 宇宙飛行士 山崎直子
2016/6/23付
日本経済新聞 夕刊
 目の前の風景が当たり前のことだと、つい思ってしまうのだが、幼児の時に感じていた、近所の裏山が全ての世界という日常と、今とでは大差がある。歳を重ね、日々の活動が変わり、家族構成が変わることで、また住む場所が変わることで、日常と思う景色は変わってくるものだ。

 私は、11年間訓練をしていたこともあり、宇宙を特殊な場所だと思っていた。確かに、重力に逆らって宇宙に出ることも、そこに住むことも多くの技術が必要であるし、宇宙に到達して体が浮いた時の感覚や、ぽっかりと真上に光る青い地球を眺めた時の感覚は、非日常の極みだったと言える。

 しかし、いつしかそれが当たり前になってきて、指先で壁を押せばすっと進むことも、宙返りが普通にできることも、寝袋の中でふわっと浮きながら寝ることも、日常と思えてくる。宇宙で生活して一番意外だったことは、非日常と思っていた宇宙が、だんだんと日常になったことだった。

 そして、地球に戻ると、今度は重力の大きさに驚く。頭に漬物石がのっているかのような重さ。紙一枚でもずっしりとくる重さ。そして、外に降り立った時のそよ風の心地よさ。草や木の香り、土の感触。何もかもが皆愛(いと)おしい。地上から離れ、無重量でかつ人工的な環境の宇宙船で過ごした後では、目の前のありきたりの景色や香りこそが、何より愛おしく感じられた。

 当たり前と思っていたことは、当たり前ではない、とてもありがたい、ということを理屈抜きで感じる。忙しく過ぎていく毎日だが、この中にこそ、物事の本質や幸せが隠れていると思うと、日常の捉え方も変わってくるようだ。