藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

娯楽と自分。

笑いは娯楽だという。
見たたこともない他人様のこと。
つまりは自分以外のこと。
いや、あるいは自分のことでも、身の回りに起きたことはみんな「娯楽」になり得る。
なんでかなぁ、と思えばそれは「その方が"情報"の利用価値が高いから」ではないだろうか。

糸井さんの言うように「娯楽というのは、心を慰め、楽しむこと」という立場で見れば、何でも「そんな対象」にすることができそうだ。

他人事も、自分のこともみんな娯楽になり得る。
週刊誌やタブロイド紙が噂話的で下品だなぁ、などと言いながら誰もがその話題に関心がある。

身内では笑えないようなことも、噂話になれば途端に娯楽の種になることを自分たちはよく知っている。

他人事にする力、とでも言えようか。
不謹慎なようだけれど、その方が情報の価値というか「リサイクル的な価値」が上がってくる。

「噂」とか「ゴシップ」というのは、ただそういう他人様の話題をあげつらって楽しんでいるばかりではなく、いろんな事件から得られる教訓を自分たちの生活に取り込むための「情報共有の手段」でもあるようだ。
「楽しみと、さらに実利を得る」という意味では、娯楽というのは実に合理的な表現ではないだろうか。
結局は何でも楽しんでしまおう、というのは前向きな性向ではないだろうか。

・「笑い」は「娯楽」だということは、みんなが認める。
 「娯楽」というのは、「心を慰め、楽しむこと」らしい。
 たしかに、笑いは「心を慰め、楽しむこと」だと思う。
 
 とても、泣ける映画があったとする。
 いわゆる、「お涙頂戴」のためにつくられた映画で、
 まんまと大泣きをしたとしたら、
 「泣く」というのも「娯楽」だと人びとは認めるはずだ。
 怖いぞ怖いぞと煽り立てて、
 つくりものの恐怖で絶叫させるような映画も、
 いわゆる「ホラー」というジャンルに数えられていて、
 「恐怖」も立派な「娯楽」だということがわかる。
 程度のちがいはあるけれど、「エロティック」な表現で、
 人びとをよろこばせようとする映画も、
 これまた「娯楽」であると認められるはずだ。
  
 しかし、「笑い」も「泣き」も「恐怖」も「エロ」も、
 もうちょっと複雑に入り組んだかたちに仕立て直して、
 なんというか文学趣味みたいなものを演出したら、
 「娯楽」ではなく、「芸術」のほうに整理される。

 また、「笑い」も「泣き」も「恐怖」も「エロ」も、
 現実にあったことである場合には、「報道」になる。
 それを「娯楽」だと言い切ったら失礼ということになる。
 特に、「泣き」の関わる「事実」などについては、
 それを「娯楽」だなどと言うのは絶対にタブーである。
 
 でも、実際は、ほんとうに正直に言えば、
 「娯楽」にしてはいけないとされていることを、
 あなたやわたし、ほとんどの人たちが、
 無意識であるにせよ、勝手に「娯楽」にしていることが
 いくらでもあるのではないだろうか。
 「悲しい話」「ひどい話」「信じられない話」
 「あってはならない事件」などが、
 「娯楽」として商品になっているということを、
 売るものも、買うものも、ほんとは承知している。
 そして、そういうふうになんでも「娯楽」にすることは、
 人間として恥ずかしいことなので、もっと他の理由で、
 そういう情報を売り買いしていることにしている。
 「娯楽」というのは、なかなかの危険物なのである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
純粋に娯楽だけのものもないし、娯楽にならぬものもない。