藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

好機はすぐそばに。


常識とは当たり前の知識、というけれど過去の歴史を見るまでもなく、今でも「常識の転覆」というのはよく起こる話だ。
ほぼ日より。

 みんながみんな平らな月を見ていたとは思えない。
 強い好奇心のある人が、「ひょっとしたら」と、
 うまく説明できないけれど、なにかを感じていた。
 そういう時間が長く長く続いていたと思うのだ。

地球が丸かったとか、実は太陽の周りを回っていたとか、そこまでの話ではなくても。

「そんなところにお客はいない」とか「そんなものは売れない」とか。
そんなものは実現できないに決まっている、とか。
何でそうなるのか。

困ったことに「そうした見立て」は結果から見れば、九割がた正しいから。

だから「そういう声」が大きくなるし、幅を利かす。
そりゃ「だいたいそうなる」からねぇ。

自分もこれまでしばしば「フジノさん、これは売れませんよ」とか「良いものが、必ず売れるものではありませんからね」とか言われてきた。

そんなことは気にしなくていいのだと思う。
それは「参戦しない人」の常套句みたいなものだから。

リスクがあるからいかがなものか?
という問いは伝家の宝刀のような言葉だが、ものを前には進めない。

なんかビジネス教室の講座みたいになるので、もう終わりにするけど
少し目線を変えるとか、もっと簡単には「物言い」を変えるだけで、考え方の指向が変わることって案外ある。

大人ぶって、常識人ぶって「リスクなき発言」に終始するより常にリアリストでありたい、と思う。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 昨日の「今日のダーリン」

08月12日の「今日のダーリン」

・昔の人は、地球が球体だと思っていなかった。

そういうふうに憶えていたけれど、
みんながみんな地球が平面だと信じていたわけでもない。
「地球球体説」というのは、にわか知識によれば、

 古代ギリシャ時代から、そう考えていた人はいたらしい。
それはそうと、「地球球体説」ってことば、おかしいね。
地球ってことばがすでに球を表現しているよね。

ぼくらは、すでに事実として教わっているから、
地球がどういうかたちをしているか知っているけれど、
ほんとうにじぶんで調べたわけじゃない。
そういう意味では、昔の人として古代に生きていたら、
ぼくはきっと「大地が球だって?まさか!」と、
ごくごくふつうに言ってたにちがいない。

いや、なんでそんなことを言い出したかというと、
昨夜の空に半月をながめててね、
月が球体であることをすでに知識として知っているから、
月の明るい部分が、太陽に照らされていて、
暗い部分がその影になっている球体に見えたわけだ。
で、ね、この球体っぽい感じ方って、
いつの時代の人でも感じられるんじゃないかな、と、
ふと思ってしまったのだ。
「どう見ても、まるい球だよなぁ」と気づいても、
なんの不思議もない。

さらに、もうちょっと探求心のある昔の人なら、
「あれはお日さまに照らされた光じゃねぇかな」と、
推察するようになっても、おかしくはないだろう。

歌舞伎の舞台に貼りつけられた月は平面だけれど、
みんながみんな平らな月を見ていたとは思えない。
強い好奇心のある人が、「ひょっとしたら」と、
うまく説明できないけれど、なにかを感じていた。
そういう時間が長く長く続いていたと思うのだ。
おもしろいなぁ、そういうの。

いまの時代で、その球体の月にあたるようなことって、
たぶん「はたらき方」だとか「ビジネス」とかの分野に
あるんじゃないかと思うんだよね。
そのあたりのことには、「常識の思いちがい」が、
たっぷり隠れてるような気がしている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
精子の発見が17世紀、恐竜の発見が19世紀‥‥あったのに。