藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

中村さん、ゆく。

「技術のある子はたくさんいるけど、心と身体の結び方をちゃんと教わっていない子は伸びない。

生前、中村さんが繰り返し口にしていたこと。
"音楽は技術ではない"
マスコミにも登場しつつ、一般人にも触れあいつつも一貫して「芸術の厳しさについて」は隠さないという印象があった。
「いまだにコンクール受験生のような生活をしています」というさらっとした物言いに、往年のアントニオ猪木のような迫力を感じたものである。

(チョ・ソンジンに)
この子はエリート教育とは無縁の素朴な環境で、思いを技術に変える力を自ら培った。優勝よりこのことに意味がある。

天才天才、と自分たちは浮かれて言うが、まさに「血の滲むような下積み」にはそれほどスポットは当たらない。

ピアノに限らず技術的に優れた演奏者は数多(あまた)いるけれど、「そこからさらに頭一つ抜け出す」には、全く別の要素が必要なのだと思う。

優れた芸術家が亡くなるのは悲しいことだけれど、それに連れても「生前の活動が光り出す」のはまさに「生ける人が歴史になる瞬間」なのかもしれないと思う。

第一生命ホールで聴いたラフマニノフが忘れられない。

国民的な華、何しても一流 中村紘子さんを悼む

2016年8月15日16時30分

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 ジャンルや世代、あらゆる境界を超える「華」だった。ショパン国際ピアノコンクールに入賞し、戦後の楽壇を牽引(けんいん)する存在に。芥川賞作家の庄司薫さんと結婚して話題を集め、カレーのCMで一世風靡(ふうび)。ここまで広く深く、人々の心をとらえたクラシックのピアニストはかつてない。

 「演奏、トーク、文筆、料理、何をやっても一流。ものごとをわかりやすく伝える才能が、時代を超えるカリスマ性の源だった」と同世代のバイオリニスト、前橋汀子さんは言う。

 戦後から高度経済成長期にかけ、クラシック音楽がテレビやラジオから、本格的にお茶の間に流れ出した。戦争で失われた自身の青春を子供に託すかのように、母親はこぞって我が子にピアノを買い与えた。

 そんな母親たちの視線の先に、いつも中村さんがいた。1990年ごろに出演のCMは、室内楽に興じた仲間にカレーを振る舞う設定。別のバージョンでは「主婦、中村紘子」というキャッチコピーも。世界の表舞台に立ちつつ、家庭もしなやかに守るイメージが、新たな生き方を模索する女性たちの憧れとなった。

 天才少女として脚光を浴びたが、もともと小柄で手も小さい。女性にとってピアノは花嫁修業にすぎない、とする風潮もあった。しかし、自身の中に湧き起こる律動を世界に伝えるという夢を、この人は決して手放さなかった。すべてを捨てる覚悟で10代で渡米。名教師ロジーナ・レビンのもと、奏法をいちから直した。がむしゃらに鍵盤をたたくばかりでは、いつか限界がくると感じていた。

 しかし「血を吐くような」その努力の日々が、背筋をすっと伸ばし、鍵盤と適切な距離感を保つ、あの自在な姿勢の礎となる。手の甲はテニスボールのように丸く、弾力に満ちて跳ねた。「音楽は心で弾くもの」というレビンの教えも生涯の宝物となった。

 今年2月、中村さんの自宅に招かれた。闘病で少し痩せたせいか、目の輝きがかつてなく強く、はっとした。抗がん剤の治療の合間だったが、普段と変わらぬ風情でくるくると立ち回り、料理や酒を振る舞った。同じ場に、少年時代から成長を見守ってきたショパン・コンクールの覇者、チョ・ソンジンがいた。

 「技術のある子はたくさんいるけど、心と身体の結び方をちゃんと教わっていない子は伸びない。この子はエリート教育とは無縁の素朴な環境で、思いを技術に変える力を自ら培った。優勝よりこのことに意味がある。こうした人が出てくるのだから、音楽の世界にもまだ希望があるわね」

 天性の楽観を力にし、5月まで舞台に立った。誕生日の7月25日、ショパンラフマニノフを弾くための良い奏法がやっと見えてきたと庄司さんに語り、翌日、ショパンが待つ世界に独り、ふっと旅立った。(編集委員吉田純子