藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ちょうどいい未来。

10年前とか、中高生の自分へ、という問いかけには正直戸惑うけれど。
逆に「1年後の自分へ」というのは逃げ場がない。
1年後なら「知らない遠く」でもなく、また「ちょっと曖昧に空気だけ」というほどいい加減にも扱えない。

勢い、仕事もプライベートも「具体的」に考えざるを得ない。
こうして今まで1年づつ歳を取ってきたわけで、それはこれからも続いてゆく。

「遠い将来のことはいい。来年の今、お前は何をしているのだ?」という質問は案外辛い。
「こんな仕事と、こんな趣味と、こんな家族と友人と」という話は、明日からの一日一日で「365日後」にはやってくる話だから。

そして恐ろしいことに、1年後の積み重ねが何十回か重なって、自分の人生はトータル的に構成されている。

1年後の自分イメージというのは思いの外シリアスだ。
「まだまだ先だから」という"逃げ場"がないし、けれどリアルにやってくる。

さらに逆算してみれば「来月の自分」にまで話は迫ってくる。
来年の自分は無事に過ごしているだろうか。
そのために明日があるのかもしれない。