藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

見えてしまうこと。

未来を知っている人の目に映るものというのは、
切ないことばかりになってしまうのかもしれない。
老いたぼくらが、若い人たちを見ている目というのは、
もしかしたら、こういうものなのだろうかと思った。

脳は古びない、と思う。
むしろどんどん鋭くなっていくのではないか。
日野原重明の眼光が異様に鋭いのは、その深い洞察力とか慈愛とか哲学とかが表情に出ていたのだと思う。

つまり老人が若者を見れば「見えてしまうもの」がある。
若者にはもちろん「それ」は見えない。
だから若者なんだ。
若くて、いろいろ無駄なこととか、失礼なこととか、無謀なこととかをして、だんだんいろいろと「知って」いく。
なんでも知っているのは老人だ。

未来を知っているけれども、それは言葉では伝わらない。
時間を過ごして、経験してみたら初めてわかることだから。

だから「あの老人から見て、自分はどう見えているのだろうか?」と考えることは無駄ではない。
それは「老人の眼で自分を透かして見る」ということだ。

「老いの眼」で自分を見てみる。

結構な"俯瞰思考"と言えるのではないだろうか。
ふふ。まだまだ若いのぅ…
とか言ったりして。

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・戻ってきた風邪を追い出すために家で寝ているか、
それとも「パシフィコ横浜」に
ラ・ラ・ランド in コンサート』を観に行くか。
その二択があったのだけれど、結局横浜をとった。

ラ・ラ・ランド』という映画は、すでに二度観ている。
今回の催しは、その映画をスクリーンで上映しつつ、
東京フィルハーモニー交響楽団が、
映画にシンクロさせた生演奏をするというものだ。
ぼくは7月の段階で、この試みに魅力を感じて、
ネット上でのチケット予約をしてあった。

想像していたよりも、ずっとおもしろかった。
生のコンサートでもあり、映画でもあるということで、
中途半端に感じる人もいるかもしれないが、
いやいや、そんなことはなかった。
やっぱりいまのお客さんは、ライブ感を求めている。
映画もいいけれど、なにより、生演奏の場にいたいのだ。
そして演奏されるのは、何度も何度も
サントラ盤で聴き込んだ曲なのだから、親しみもある。
帰り道に「よかったねぇ」とか言いあいながら、
横浜の海沿いの道を歩いているカップルの姿が、
始まる前から見えてくるようなイベントだった。
そして、終わってみれば、この老人やら中年やらも、
「よかったよかった!」と言いながら港を歩いていた。

それはそれで、よかったよかったなのだけれど、
同じ映画を観るのも三度目になると、
まったく観る目がちがってくるのがおもしろかったなぁ。
あれとあれが、あれしてああなるということを、
すでに知っているものだから、途中途中を、
「いずれ、ああなるんだ‥‥」という目で観てしまう。
だから、恋愛がしだいに盛りあがってきて、
手を握りあったり見つめあったりしている場面で、
それが健気でいじらしく、切なくさえ見えてしまって、
泣けて泣けてしょうがなかったのだ。
未来を知っている人の目に映るものというのは、
切ないことばかりになってしまうのかもしれない。
老いたぼくらが、若い人たちを見ている目というのは、
もしかしたら、こういうものなのだろうかと思った。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
それにしても、風邪がおれに再上陸するとは思わなかった。