藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

焦らなくていい。

日経、プロムナードより。
詳しくはコラムを読んでいただきたい。

何かの功名を焦っていると、ついそれに気を取られてしまう。
その「結果」が目的になってしまうのだ。

 誰かのようであろうとするより、自分に与えられた場所を、力一杯に生き抜く。
無理に揃えようとしなくてもいい。
最後はどうしたってみな、同じ一つの場所へと還っていくのだ。

なぜか「運慶展」を見た後のような気がした。

秋深き隣は何をする人ぞ
と詠んだのは芭蕉だ。
秋が深まる頃になると、いつもこの句を思い出す。
芭蕉を精神の道標として、独自の数学世界を切り開いた数学者の岡潔(1901〜78年)も、好んでこの句を引いて日本人の「情緒」を論じた。
芭蕉の句の表面にあるのは淋(さび)しさである。だが、底にあるのは懐かしさなのだと、岡はこの句を読んだ。

この後の「自他通い合う大きな情は、身体を緒(いとぐち)として、個別の彩りとともに表現される。以下」の数行はそのものを読んでいただきたい。
森田さんの短い文章が心に刺さる。

いつかこんな文章を書きたいと思った。

懐かしい場所 森田真生

 京都の暑すぎる夏と凍える冬の間に、束(つか)の間の過ごしやすい季節がやってきた。窓から差し込む秋の陽射(ひざ)しに、木々の影がやさしく揺れる。いのち咲き乱れる賑(にぎ)やかな春もいいけれど、すべてが力弱く大地に還(かえ)る、秋の深々とした静かさもいい。

 秋深き隣は何をする人ぞ

 と詠んだのは芭蕉だ。秋が深まる頃になると、いつもこの句を思い出す。芭蕉を精神の道標として、独自の数学世界を切り開いた数学者の岡潔(1901〜78年)も、好んでこの句を引いて日本人の「情緒」を論じた。

 芭蕉の句の表面にあるのは淋(さび)しさである。だが、底にあるのは懐かしさなのだと、岡はこの句を読んだ。

 懐かしさとは、郷愁(ノスタルジア)と同じではない。過去や記憶と結びつかない懐かしさもある。初めて巡り合う人や場所に対しても、人は「懐かしい」と感じることがある。

 生まれたばかりの赤子は、親の顔を懐かしそうに見上げる。「懐く」という言葉もあるが、自分が何かに属していると実感すること、あるいは、自分が、自分を超えた何かの一部であると安心すること。そういうときに、人は「懐かしい」と感じるのである。

 人はみな、小さく、限られた身体を通して、それぞれの場所に風景を編む。しかし、その個々の身体を超えて、通い合う情(こころ)があるのだ。

 自他通い合う大きな情は、身体を緒(いとぐち)として、個別の彩りとともに表現される。大きな情と、小さな緒。その間を行き交う生命のダイナミズムを、岡潔は「情緒」という言葉でとらえようとした。

 色とりどりに咲いた花も、それぞれの音色で歌った虫や鳥たちも、存在はすべて、やがて力尽きて眠る。小さく、限られた場所に宿る生命は、再び自他を分かつ壁を超え、周囲へと溶け出していくのだ。生まれ、生きて、枯れて、滅びる。生成と消滅をくり返しながら、季節はいつまでも巡り続ける。

 先日、天草でotto&orabuというパーカッショングループのライブ演奏を体験する機会があった。このグループは、鹿児島にある「しょうぶ学園」という障害者支援センターの施設利用者が中心メンバーとして活躍しているユニークなバンドだ。園長の福森伸氏の指揮のもと、総勢30名ほどのメンバーが、銘々のスタンスで、それぞれの楽器を力一杯(いっぱい)に奏でる。

 指揮者も、全員の足並みを揃(そろ)えようとはしない。皆が、好きなように演奏している。タイミングがズレることもある。舞台上でくしゃみが出ることもある。だが、そのすべてがきれいに揃わないまま、エネルギッシュで力強い音楽になる。

 満場の拍手で演奏が終わると、マイクを向けられたメンバーの一人が、なぜか野球について語り始めた。見事なライブをやり遂げた彼は、実は音楽よりも野球のことで頭がいっぱいだったのである。それぞれのメンバーがバラバラのことを考えながら、それでも一つの音楽が生まれる。揃わないまま、共に在る。その様子が何とも伸び伸びとしていて、清々(すがすが)しい気持ちになった。

 誰かのようであろうとするより、自分に与えられた場所を、力一杯に生き抜く。無理に揃えようとしなくてもいい。最後はどうしたってみな、同じ一つの場所へと還っていくのだ。

(独立研究者)