学校教育で「ジャーナリズムとは何か」と教わったことはなかった。
大学の学科でならあったかもしれない。
ひょっとしたら「三権分立」と同様に必要なことだと思うが、社会人になってから「メディアとか報道というもの」について考えさせられる。
何か基礎教育の一般教養以外に、子供にも教えることが実はあるのではないだろうか。
教育はその基礎的な「骨子」について今一度考える必要があると思う。
基礎学問もいいが、今の世間の様子を「現場の経営者たち」が「構造的に語る」ということが根本的に欠けていると思う。
最近、ひたすら「起業する」とか「ジャーナリストになる」とかいう若者がいるが、果たしてどれほどの現実を知っているのか。
若者は格好いいことに憧れたりするから、「本当のこと」を話しておくべきだと思う。
志望者は、この記事を読んで「自分はジャーナリズムに身を投じれるか」を考えたほうがいいだろう。
職業ってどれも厳しいものだ。
「ジャーナリズムとは何か」を問う…出口治明氏(後編)
(前編から続く)
物事の本質を見極めよ
- 「物事の本質を見極めなければ、メディアが面白い記事を書けない」
――連合王国は大陸と離れて生きていくことはできないというお話でしたが、であれば、EU離脱と言う結果が連合王国の未来までを決めるのではなく、あの国はまた、大陸に接近せざるを得ないということが分かるわけですね。
国民投票後の総選挙で早くも反動が出ましたよね。メイ首相は議席を減らしています。強行離脱と言ったら、みんな「ちょっと待てよ」となったわけです。
――そういう物事の本質を、常にメディアの人間が見極めなければといけないということですか?
そうじゃないと、ろくな記事を書けないし、面白くない、ということですよ。日経新聞はFT(フィナンシャル・タイムズ)の記事の転載を行っていますが、FTと日経記者の記事が同じ紙面に載ると、差がありすぎてかっこ悪い。これを契機として、日経の記者がもっと発奮して、FT並みの記事を書けるように成長してほしいですね。
実践と研究を繰り返す
- 実践と研究を繰り返して一人前になっていく(イメージ)
――出口さんは、そのためにはダブルマスターくらいは必要だとおっしゃる。アカデミズムと連携するのはやはり大事なことですか? アメリカの新聞記者は、現場と大学を行ったり来たりして、実践と研究を繰り返しながら一人前になるようなことを聞いたことがあります。
当たり前です。記者だけではなく高級官僚もそうですよ。政権交代でクビになったら研究所やシンクタンク、大学に戻って勉強して、またポリティカル・アポイントメントで、戻ってくるわけです。
――実践で学んだことを、研究の場で検証するというイメージですか。あるいは、理論を学んで実践の場で試す。少なくとも日本では、そういう流れになっていないのが現状です。
読売新聞は日本最大のメディアなので、ぜひ真っ先にチャレンジしてみてください。みんなまねすると思いますよ。
――そうすると、ネットが直接の脅威ではなくなりますか。
ネットが脅威というよりも、中身が面白ければ紙でもネットでも人は記事を読むはずで、現状は、場合によっては、ネット上の素人が書いている記事のほうが面白いから、メディアの記事が読まれなくなっているんです。
2017年11月29日 12時40分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
ページ: 2メディアに求められる役割
- 噓は噓だとメディアが指摘しなければならない(イメージ)
――その流れでお聞きしたいのは、最近のネットには、フェイクニュース、著作権の侵害などといった問題があるとよく言われます。特に、去年あたりからそういう問題が噴出して、そういう問題に対して、ファクトチェックのような動きが出ています。この辺りはどのように考えられますか?
これは本当にネットの問題か、ということですよ。ネットの問題ではなくて、社会のリテラシーの問題だと思うんですよ。だって、元データにあたればすぐにフェイクなんて見破ることができる。ちゃんと調べればいいんです。アメリカの新聞が「トランプ大統領の昨日の発言の中で7割が嘘(うそ)だ」などというデータを出しています。そういうことをちゃんとやれば、普通の人が読めばフェイクだとわかる。
もちろんネットではうそをつきやすいという面があります。でも、そこはリテラシーの問題として見るべきであって、糸井重里さんと早野龍五先生の著書『知ろうとすること。』に、嘘やでたらめを言う人に対しては、名指しで「この人が言っていることは嘘ですよ」と粘り強く言い続けないといけない、という趣旨のことが書いてあります。それこそがメディアの役割じゃないでしょうか。
――メディアが警告を発するということですか。
例えば、「ツイッターでこんな話がある。みんながリツイートしているけれど、事実に反しているよ」と、メディアの人が言うべきなんです。メディアって社会の木鐸(ぼくたく)ですよね。フェイクニュースうんぬんというのはネットのせいではなく、嘘は嘘だという、健全な市民の常識の声が弱いという問題なんです。
講演会などに行くと、「情報があふれていて何を信じたらいいかわかりません」という質問が出るんですよ。そういう人に限って、グーグルで検索したことがないんですよ。検索したらすぐにわかるんです。例えば、「大学進学率の国際比較」で検索すると、グーグルのロボットって結構賢くて、一番上にはOECD(経済協力開発機構)とか国連とか、まともな団体の調査結果が並ぶわけですよ。個人が勝手に書いたブログなんて、上に来ない。情報があふれているわけではなく、情報を判断するリテラシーが下がっているだけだと思います。
――確かに、情報量自体は多いです。
でも、ほとんどは読む必要がない情報です。この間とても面白い話がありました。一橋大学に楠木建という教授がおられます。経営学の大家で、体形がジェームズ・ボンドと同じだと言っている面白い先生ですが、6時くらいに家に帰って、本を2〜3冊読んで寝る生活を続けているそうです。
楠木先生と対談する機会があったのですが、その際にある人が「先生は本を選ぶとき、アマゾンの書評を参考にされますか」と聞いたんです。その時の楠木先生の答えが秀逸だった。
市民のリテラシーを上げよ
- 「メディアが市民のリテラシーを高めていかないといけない」
――楠木さんは何と?
「アマゾンが商売のためにやっているコラムで、匿名で、レベルも不均質な有象無象の人が書いているものを、読むだけ時間の無駄だと、あなたは思わないんですか」と答えられたのです。その通りだなあと思いましたよ。商売のためにやっている書評で、それぞれレベルも違う、執筆者の名前も出さない。そんなものを読むだけ時間の無駄だということです。こういう健全な良識をメディアがちゃんと発信して、市民のリテラシーを上げていくかどうかの話だと思いますよね。
――読むのもバカらしいということですか。
ただ、決定的な時にタイミングよくフェイク情報を流すと、訂正する時間がないままに一気に拡散するということは、現実問題としてはある。そういう怖さがあります。でも、昔も選挙の前に怪文書がまかれたり、候補者が入院したというフェイクニュースが流れたりしたのと同じ話ですよね。今はそれが、ネットで増幅されていますが、本質は同じです。
ネットは単なるツールなので、それをどう使うかが問題なのです。車に例えたら、便利で高性能な車で、素人がアクセルを踏んだらあっという間に300キロ出るから危ないよという怖さがある。しかし、しょせんはツールなので、それを使いこなす人間のリテラシー問題です。市民のリテラシーを上げるべき存在であるメディアの問題が大きいでしょう。特に日本で一番発行部数の多い、読売新聞のような有力なメディアが「これはフェイクだ。この人が言っていることの7割は嘘だ」と、名指しでガンガン書いていくべきですよ。
――メディアはファクトチェックに力を入れるべきだと言うことですか?
メディアがちゃんとファクトチェックをやれば、フェイクニュースは消えると思いますよ。
2017年11月29日 12時40分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
ページ: 3粘り強く「嘘だ」と言い続けよ
- 「悪貨のほうが良貨を席巻しているように見える」
――そういう姿勢をメディアが貫くと、長い目で見れば良貨が悪貨を駆逐するということになるのでしょうか。今のフェーズだけを短期間で見ると、悪貨のほうが世の中を席巻しているように見えます。
それは、悪貨を流す人が確信犯だからです。そういう人は徹底的に人を攻撃するし、しつこさがある。それこそ糸井さん、早野さんが言われているように、こちらも粘り強く「それは嘘だ」と言い続ける市民社会を作っていかなければならない。そして、その市民社会をけん引するのがメディアの役割です。
――ファクトチェックをメディアの機能として持つべきではないかという議論が、昨今起こっています。実際にそういう取り組みを始めた欧米のメディアもあります。特にアメリカでは、あの大統領選を経験したのが大きかったようですね。
良い試みはまねすればいいじゃないですか。ネットはあくまでツールなので、コンテンツが問われているんだと思いますが。
「耳が痛い」指摘を続ける
- 「SNSの機能について、メディアが指摘を繰り返せばいい」
――その一方で、最近のネットが作り出した現象としては、自分の周りに自分の心地よくなるようなニュースばかりを集めて、他の価値観には触れようとしない傾向が生まれていますよね。ネットはそういう意味でも、優れた機能のある道具で、読んでいて気持ちのいいようなニュースばかりが入ってくるようにすることもできる。「フィルターバブル」と呼ばれ、フィルターとなる泡の中で心地よく生きていく人が増えているということですよね。
そんなのは昔から、あることですよ。組織でも茶坊主やイエスマンばかりを周囲に集める人はいる。だから、メディアがガンガン耳の痛いことを指摘すればいいんです。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)にはそういう機能があるということを、です。茶坊主ばかりを周囲に集めたら裸の王様になってしまいます。耳が痛いことを言う人を横に置いておかないとアカンよと、指摘し続けてください。
――それこそが、僕たちの役割ですか。
そうですよ。抽象論ではなく、例えば繰り返されているデマのツイートがあったら、「こんなツイートが繰り返しリツイートされているけれど、それは嘘だよ。なぜならここが違うから」とガンガンやっていくのが、整理機能を持っているメディアの役割です。
――中には、同じ現象が見方や立場によって解釈が違うと言うこともありますよね。
だったら、両論併記でいいじゃないですか。ただし、両論併記で注意すべきことは、両論を平等に論じることが正しいわけではないと言うことです。いろんな問題について、両論をまったく平等に伝えることが、メディアではないと思います。メディアが各々の信念信条に基づいて、ウェートづけを行うことは絶対に必要ですし、それがなければメディアとして無責任だと思いますよ。
2017年11月29日 12時40分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
ページ: 4メディアは見識で勝負せよ
- 読者の意見や反応に対し、メディアはどう答えるべきか(イメージ)
――多様な価値は紹介するが、やはりこの考え方が正しいのではないかということを、見識をもって提示するということですね。その一方で、最近は新聞社自身がネットを駆使するようになって、自分の論調に対してすぐに反応が見えるようになってきました。そうすると、自分のところの読者はこういうのが好きなんだなというのが、肌で感じられるようになり、一部のメディアでだんだん論調が先鋭化しているような気がします。
読者におもねるようになるということですね。ですが、これも何百年前から答えは出ている。脊髄反射したらいけないんです。経営論でもそうです。人間はすぐパニックを起こすので、最初の反応なんて、信用できません。1週間、1か月と様子を見て、落ち着いてから判断しないと大変なことになる。そういうことです。
何かとがった記事を書くと批判がわっと殺到する。でも、その反応は最初だけのことかもしれません。1か月後に反応がどう変わったかをちゃんとみて対応しないと、最初の反応に脊髄反射してはいけないんです。これは何もネットに限ったことではありませんよ。
フィギュアスケートの安藤美姫さんが出産した時に、父親は非公表という理由でバッシングが起こりました。批判がうずまくネットの上で、ある女性が「うるさい、みんな黙りなさい。一人の若い女性が、健康な赤ちゃんを産んだ。その事実をみれば、何を言うべきかわかるでしょう。産んでくれてありがとう、応援するから頑張って育ててよ。他に何を言う必要があるのですか」と一喝した。バッシングは減りましたよ、みんな恥ずかしくなって。
――それが見識というものですか?
それが見識であり、メディアの役割です。だから、メディアは見識で勝負すべきなんです。たとえば、世論調査でも聞き方によって答えが大きく変わることがあります。どういう設問にすべきか、ということにもメディアの見識が表れますよ。何かの記事で読んだのですが、面白い話があって、旦那が奥さんに、「食料品の税金って低いほうがいいと思う?」と聞いたら、奥さんは瞬時に「私がどれだけ買い物に苦労しているか知らないでしょ。安いのがいいに決まっているわ。聞くまでもない」と怒った。
――主婦感覚ですね。
ところが、同じ奥さんが翌日新聞を読んでいて、軽減税率で1年間で平均どれくらい安くなるかの表を見ていて、「うちは年収500万で年間3万円くらいしか安くならない。なんで年収1500万もある人は10万円も安くなるの」と、また怒った。同じ軽減税率の問題でも、設問によって意見が変わる。つまり問題設定によって、結果がこんなに違うということです。そして、それこそがメディアの見識で、条件反射的な反応を期待して聞くのか、きちんと全体を整合的にとらえて聞くのか、という質問設定の段階で市民の答えは変わってくるのです。
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ページ: 5ジャーナリズムのあるべき立場
- ジャーナリズムの立ち位置について、出口さんが記者に聞いた時に書いた図
――正しいかどうかはともかく、かつては「どの新聞を読んでも中身はほとんど同じ」と批判する人もいました。でも、最近はずいぶんスタンスの違いがはっきりしてきたようにも思います。それはいいことでしょうか?
良いことだと思いますね。
――新聞は権力を監視するという大きな役割があります。何か問題が起きて動くのではなく、何もない時でも常に監視の目を注いでいることが大事だと思います。そして、そこにはコストがどうしてもかかります。
この前びっくりしたことがあって、若い雑誌記者たちが取材に来たんです。質問がどうにも危なっかしいので、図を描いて見せました。一番右が「権力」、一番左が「市民」。「君はどこにいるの、丸つけてごらん」と聞くと、一人の記者はうろうろしながら、最後は「権力」と「市民」のちょうど真ん中に丸をつけた。すると、次の記者が最初の丸の「市民」寄りの隣に丸をくっつけて描いた。最後の一人も、先の二つ並んだ丸の「市民」寄りのところに丸をくっつけた。横に丸が三つ並びました。
――だんごみたいですね。
日本でたくさん売れている雑誌の記者なんですけれど、あまりのリテラシーの低さにがく然としましたよ。「ジャーナリズムを考えたことあるの」と聞いたら、「ありません」。少なくとも、欧米のクオリティーペーパーの記者に聞いたら、一番左の「市民」のところに丸をつけるしかありえませんよ。
ジャーナリズムというのは社会の木鐸で、権力を監視するわけです。権力と対峙(たいじ)する市民の側に立つのが基本で、両者の間にいるなんてありえないと。何を考えているんだという話をしました。こういうリテラシーを教えないといけない。
――なるほど。
「ジャーナリズムとは何か」自問せよ
- 「ジャーナリズムとは何か、常に自問しなければならない」
紙であろうがネットであろうが、やっぱりジャーナリズムとはなんだということを常に自問しなくてはなりません。市民のポジションに立ち、文脈を整理し、わかりやすく面白く整理するのがジャーナリズムの役割です。コンテンツが勝負。文脈の勝負、そこにしか付加価値はない。昔からわかっていることで、ネットのせいにするのはいいですが、皆さん当たり前のことをちゃんとやっておられるのですかと問いたい。
読売新聞は日本の新聞で一番財政状況がいいし、コストを払う体力もある。部数も多い。だからこそ、圧倒的に社会的責任も大きい。いいコンテンツをちゃんと作って、読売の記事は面白いとか、勉強になるとか、毎日読みたくなるという記事を作らなければ、ネットだろうが紙だろうが、将来はないですよね。言わなくともわかっているとは思いますが。
――絶えず僕たちは、自戒をしながら本質を見失わないようにしないといけないということですね。
人間の自由を勝ち取る歴史は、表現の自由を求める歴史でした。革命はすべてそこから起こっている。そう考えて、祖先がやってきたこと、欧米のクオリティーペーパーがやってきたことを見れば、いくらでもヒントは転がっています。読売新聞には紙とネットにかかわらず、記事に全部署名してほしいと思っています。ペンネームでも構いません。同じ名前の人がちゃんと一貫して記事を書いているかどうかということを担保するためなので、ペンネームでも良いんです。
――このシリーズでは私が顔も名前も出してやっていますので、言っていることの変遷はネットに残っています。ぜひ読んでいただきたいです。
それはすごくいいことですよ。
――今日はジャーナリズムの講義を受けたようでした。
ライフネット生命の経営から離れたので、今はいろいろなところで講演しています。特に歴史は面白いですよ。事実は小説より奇なり。実際に起こったことが何よりも面白いんです。
YOL−OFF(インタビューを終えて)
出口さんといえば、優しい笑顔とやわらかな関西弁、そして穏やかな物腰が印象的な紳士です。それはインタビューでも変わらず、ユーモアあふれる語り口が魅力的な方でした。しかし、話の内容はわれわれ新聞人にとっても、大変厳しい指摘でした。インターネットの台頭で右往左往するばかりではなく、腰を落ち着けて、今こそ新聞本来の、メディア本来の役割を担う時かもしれません。(原田)過去の連載はこちら
2017年11月29日 12時40分 Copyright © The Yomiuri Shimbun