藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ビジネスパーソンにこそ必要な哲学、という考え方。-Ph.D-

山口周さんのコラムより。
さすが哲学者の視点だと思う。

残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。

ご指摘の通りだ。
少しは小利口になったのかもしれないが、あまり根本は変わっていないなぁと自分も思う。
武器開発は止まらないし、
軍事費も、
保護主義とか移民政策とか。
原理はまだ根本からは変わっていない。

ケインズは「知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です」といったらしい。
著者は「実に辛辣な指摘」という。

結局経済、つまり「富」が過ちの引き金になるのだろうか。
経済成長策を振りかざして、大衆もそんなニンジンばかりに目がいって、ついには戦争までも仕掛けてしまうのが人間なのだとしたら、「富とか経済」についての考え方を根本的に考え直す必要がありそうだ。
(つづく)

9割の悪事を「教養がない凡人」が起こすワケ

『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さん。ビジネスパーソンにとって哲学を学ぶことは、仕事における「悪」とどう向き合うかを考えるときにも、大きな示唆があるといいます。

■二度と悲劇を起こさないために

筆者が、ビジネスパーソンが哲学を学ぶべきと考える理由はいくつかありますが、なかでも重要だと感じるのが「二度と悲劇を起こさないために」というものです。

残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。そして、過去の多くの哲学者は、同時代の悲劇を目にするたびに、私たち人間の愚かさを告発し、そのような悲劇が二度と繰り返されないために、どうそれを克服するべきかを考え、話し、書いてきました。
 一般的な実務に携わっているビジネスパーソンは、それらに耳を傾ける必要があります。なぜなら、教室の中にいる哲学者が世界を動かすことはないからです。サルトルやがかつて発揮した影響力を考えれば、この指摘に違和感を覚える人は多いでしょう。しかし事実です。世界を動かしているのはそういった人たちではなく、実際に実務に携わって日々の生業に精を出している、つまり今この文章を読んでいる皆さんのような人たちなのです。
 世界史的な悲劇の主人公はヒトラーでもポル・ポトでもありません。そのようなリーダーに付き従っていくことを選んだ、ごくごく「普通の人々」です。だからこそ、私たちのような「普通の人」が学ぶことに、大きな意味があるのです。

特に実務家と呼ばれる人は、個人の体験を通じて得た狭い知識に基づいて世界像を描くことが多いものです。しかし今日、このような自己流の世界像を抱いた人々によって、さまざまな問題が起きていることを見逃すことはできません。ジョン・メイナード・ケインズは、著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、誤った自己流理論を振りかざして悦に入っている実務家について、次のように記しています。

 知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。

実に辛辣な指摘です。

ここでは具体例として、哲学者・ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」というキーコンセプトを紹介します。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレムで裁判を受け、処刑されます。
 このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

 この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

「悪の陳腐さ」……奇妙な副題だと思いませんか。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、われわれが一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。
■悪の本質は「受動的」であること

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、
 「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。
 私たちは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、私たちのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在私たちが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかもしれません。

 仮にそのように考えると、究極的には世の中には次の2つの生き方があるということになります。

?現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

?現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方

残念ながら、多くの人は?の生き方を選択しているように思います。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかるとおり、ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の?の論点に沿って書かれたものです。
 こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式や行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。

話を元に戻せば、ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものだと思います。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ、とするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。
 凡庸な人間こそが、極め付きの悪となりうる。「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。その可能性について考えるのは恐ろしいことかもしれませんが、しかし、だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならないのだ、ということをアーレントは訴えているのです。私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。
■なぜ日本企業の従業員は「思考停止」してしまうのか? 

一方、現在の日本に目を向けてみると、三菱自動車東芝神戸製鋼所日産自動車など、わが国を代表する企業によるコンプライアンス違反という「悪」が次々に起こっています。

筆者は、これらのコンプライアンス違反を防止するために、多くの企業で取り組まれている罰則規定に始まるルール改定やオンブズマンなどの告発制度の施行ではこの問題を解決できないだろうな、と考えています。
 というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根本的な原因は、企業と従業員の力関係にあると思うからです。

コンプライアンス違反を犯そうとする組織があったとして、当然ながらそれを問題だと思う内部者はいたはずです。ではこのとき、その内部者は具体的にどのようなアクションがとり得たでしょうか?  具体的には次の2つ、

・オピニオン
・エグジット

ということになります。

オピニオンというのは「これはおかしい、やめたほうがいい」と意見する、ということで、エグジットというのは「こんな取り組みには俺はかかわらないよ、やーめた」といって仕事から遠ざかる、あるいは会社を退職するということです。
 この「オピニオンとエグジット」というのは、従業員に限らず、組織がなにかおかしな方向に向かいそうになったときに、その組織の構成員やステークホルダーが取れる抵抗策と考えられます。

■日本企業では、この2つの権利がほとんど行使できない

たとえば株主の場合であれば、経営陣の経営がおかしいと思えば、株主総会で「おかしいだろ、それ」とオピニオンを出すことができますし、何度オピニオンを出しても経営が改善しないということであれば、株を売るということでエグジットすることができます。
 顧客も同じで、売主のサービスや商品に文句があるのであれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも状況が改まらなければ購買を中止するという形でエグジットすることができる。

したがって、健全な組織の運営にはステークホルダーに対して、この2つの権利を行使してもらう自由を与えたほうがいいわけですが……、日本企業でこれがどうなっているかというと、ほとんど行使できないわけです。なぜ行使できないか?  従業員のその企業への依存度が高すぎるからです。
 株主も顧客もエグジットが容易にできるのは、代替手段があるからです。株主であれば別の会社の株を買う、顧客であれば別の企業からサービスや商品を購入すればいい。

しかし従業員はそれがなかなかできない。その組織へオピニオンを出して上司や権力者から嫌われたら?  ほかのオプションがあれば出世の見込みのない組織などさっさとヤメて別の組織に移ればいいわけですが、シングルキャリアでほかのオプションを持たない人にとって、これは非常にリスキーな選択でしょう。エグジットも同様です。
 要するに、雇用の流動性が低い、パラレルキャリアを持つ人が少ない。結果「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう。これが、日本でコンプライアンス違反という「悪」を是正させる組織内の圧力が弱い、根本的な原因なのです。

山口 周 :コーン・フェリー・ヘイグループ シニア・クライアント・パートナー

『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さん。ビジネスパーソンにとって哲学を学ぶことは、仕事における「悪」とどう向き合うかを考えるときにも、大きな示唆があるといいます。

■二度と悲劇を起こさないために

筆者が、ビジネスパーソンが哲学を学ぶべきと考える理由はいくつかありますが、なかでも重要だと感じるのが「二度と悲劇を起こさないために」というものです。

残念ながら、私たちの過去の歴史は、これほどまでに人間は邪悪になれるのだろうか、という悲劇によって真っ赤に血塗られています。そして、過去の多くの哲学者は、同時代の悲劇を目にするたびに、私たち人間の愚かさを告発し、そのような悲劇が二度と繰り返されないために、どうそれを克服するべきかを考え、話し、書いてきました。
 一般的な実務に携わっているビジネスパーソンは、それらに耳を傾ける必要があります。なぜなら、教室の中にいる哲学者が世界を動かすことはないからです。サルトルやがかつて発揮した影響力を考えれば、この指摘に違和感を覚える人は多いでしょう。しかし事実です。世界を動かしているのはそういった人たちではなく、実際に実務に携わって日々の生業に精を出している、つまり今この文章を読んでいる皆さんのような人たちなのです。
 世界史的な悲劇の主人公はヒトラーでもポル・ポトでもありません。そのようなリーダーに付き従っていくことを選んだ、ごくごく「普通の人々」です。だからこそ、私たちのような「普通の人」が学ぶことに、大きな意味があるのです。

特に実務家と呼ばれる人は、個人の体験を通じて得た狭い知識に基づいて世界像を描くことが多いものです。しかし今日、このような自己流の世界像を抱いた人々によって、さまざまな問題が起きていることを見逃すことはできません。ジョン・メイナード・ケインズは、著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、誤った自己流理論を振りかざして悦に入っている実務家について、次のように記しています。

 知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかの破綻した経済学者の奴隷です。

実に辛辣な指摘です。

ここでは具体例として、哲学者・ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」というキーコンセプトを紹介します。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、600万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察=モサドによって拿捕され、エルサレムで裁判を受け、処刑されます。
 このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

 この裁判を傍聴していたハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま『エルサレムアイヒマン』となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

「悪の陳腐さ」……奇妙な副題だと思いませんか。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置付けられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値あるいは中央値ということになり、われわれが一般的に考える「悪」の位置付けとは大きく異なります。
■悪の本質は「受動的」であること

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、
 「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そのうえでさらに、アーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、われわれの誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。

別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです。
 私たちは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、私たちのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至すよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在私たちが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかもしれません。

 仮にそのように考えると、究極的には世の中には次の2つの生き方があるということになります。

?現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方

?現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えていくことに、思考も行動も集中させる、という生き方

残念ながら、多くの人は?の生き方を選択しているように思います。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかるとおり、ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の?の論点に沿って書かれたものです。
 こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムの中で「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式や行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。しかし、本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなのでしょうか。

話を元に戻せば、ハンナ・アーレントの提唱した「悪の陳腐さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものだと思います。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合うだけの「悪の怪物」が成したわけではなく、思考を停止し、ただシステムに乗っかってこれをクルクルとハムスターのように回すことだけに執心した小役人によって引き起こされたのだ、とするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。
 凡庸な人間こそが、極め付きの悪となりうる。「自分で考える」ことを放棄してしまった人は、誰でもアイヒマンのようになる可能性があるということです。その可能性について考えるのは恐ろしいことかもしれませんが、しかし、だからこそ、人はその可能性をしっかりと見据え、思考停止してはならないのだ、ということをアーレントは訴えているのです。私たちは人間にも悪魔にもなり得ますが、両者を分かつのは、ただ「システムを批判的に思考する」ことなのです。
■なぜ日本企業の従業員は「思考停止」してしまうのか? 

一方、現在の日本に目を向けてみると、三菱自動車東芝神戸製鋼所日産自動車など、わが国を代表する企業によるコンプライアンス違反という「悪」が次々に起こっています。

筆者は、これらのコンプライアンス違反を防止するために、多くの企業で取り組まれている罰則規定に始まるルール改定やオンブズマンなどの告発制度の施行ではこの問題を解決できないだろうな、と考えています。
 というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根本的な原因は、企業と従業員の力関係にあると思うからです。

コンプライアンス違反を犯そうとする組織があったとして、当然ながらそれを問題だと思う内部者はいたはずです。ではこのとき、その内部者は具体的にどのようなアクションがとり得たでしょうか?  具体的には次の2つ、

・オピニオン
・エグジット

ということになります。

オピニオンというのは「これはおかしい、やめたほうがいい」と意見する、ということで、エグジットというのは「こんな取り組みには俺はかかわらないよ、やーめた」といって仕事から遠ざかる、あるいは会社を退職するということです。
 この「オピニオンとエグジット」というのは、従業員に限らず、組織がなにかおかしな方向に向かいそうになったときに、その組織の構成員やステークホルダーが取れる抵抗策と考えられます。

■日本企業では、この2つの権利がほとんど行使できない

たとえば株主の場合であれば、経営陣の経営がおかしいと思えば、株主総会で「おかしいだろ、それ」とオピニオンを出すことができますし、何度オピニオンを出しても経営が改善しないということであれば、株を売るということでエグジットすることができます。
 顧客も同じで、売主のサービスや商品に文句があるのであれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも状況が改まらなければ購買を中止するという形でエグジットすることができる。

したがって、健全な組織の運営にはステークホルダーに対して、この2つの権利を行使してもらう自由を与えたほうがいいわけですが……、日本企業でこれがどうなっているかというと、ほとんど行使できないわけです。なぜ行使できないか?  従業員のその企業への依存度が高すぎるからです。
 株主も顧客もエグジットが容易にできるのは、代替手段があるからです。株主であれば別の会社の株を買う、顧客であれば別の企業からサービスや商品を購入すればいい。

しかし従業員はそれがなかなかできない。その組織へオピニオンを出して上司や権力者から嫌われたら?  ほかのオプションがあれば出世の見込みのない組織などさっさとヤメて別の組織に移ればいいわけですが、シングルキャリアでほかのオプションを持たない人にとって、これは非常にリスキーな選択でしょう。エグジットも同様です。
 要するに、雇用の流動性が低い、パラレルキャリアを持つ人が少ない。結果「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう。これが、日本でコンプライアンス違反という「悪」を是正させる組織内の圧力が弱い、根本的な原因なのです。

山口 周 :コーン・フェリー・ヘイグループ シニア・クライアント・パートナー