藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ルソーとハイテクの相関。

作家の福嶋亮大さんのコラムより。

残念ながら、日本で「社会人」になるとは、人文的教養を「卒業」して現場主義者として生きるということなのだ。

確かに、学者さん以外の社会人が「文学論」や「哲学」を話すのは余興の席でのこと。
会議室で多人数で議論されることはあまりない。

それにしてもルソーの足跡から、それがこれから普及するだろうAR/VRと重ねるとは洒落ている。
さすが文学博士だ。

対して、今後のAR/VRの進化は、善しあしは別にして『孤独な散歩者の夢想』のような「自己への沈潜」を後押しするだろう。

「自己への沈潜」。
「ひとびとは過去の記憶やネットの履歴を手がかりに、自分一人のために調整された拡張現実を孤独に生き始める……。」
ルソーの「告白」を一度読んでみようか。

ルソー晩年の想像力 AR/VRの時代を先取り
福嶋亮大

 かつて丸山眞男が言ったように、日本では文学や哲学は「若者文化」としてあり、大人のビジネスの世界にはなかなか浸透しない。残念ながら、日本で「社会人」になるとは、人文的教養を「卒業」して現場主義者として生きるということなのだ。

 だが、文明の基本的なプログラムを知らずに、社会や経済を動かすのは不可能だろうし、ときには危険ですらある。といって、小難しい思想用語に縛られる必要はない。例えば、人類の「私」なるものはいかに発明され、今後どこに向かうのか? 現代のテクノロジーはその「私」の歴史とどう関わるのか? こういう大きな問いにこそ、思想書は示唆を与えてくれる。

 近代的な私=自我の発明者とされる18世紀のルソーを例にしよう。主著『エミール』を大学から告発され、匿名のパンフレットで事実無根の中傷を受け、持病の尿道疾患の治療ミスで死を覚悟した50代のルソーは、自己弁護のために自伝『告白』を記した。この書物は西洋近代の自己表現のルーツとなり、日本文学にも大きな影響を与えた。

 近代の「私」の原点は、社会・身体・医療にまたがるルソーの一連の「トラブル」にある。無風地帯から「私」など出てこないのだ。

 しかし、ルソー晩年のエッセイ『孤独な散歩者の夢想』(永田千奈訳、光文社古典新訳文庫)では別の条件から「私」が立ち上がってくる。老いた彼は自らを社会不適合の「異星人」のように感じながら、植物への尽きせぬ愛を語る。そして、かつて自然豊かなサン・ピエール島に住んだときの記憶に没入し、至福の境地に至るのだ。

 そのとき、ルソーは現実よりも想像力をより生々しく感じていた。「実際にあの島にいたときよりも、パリにいる今のほうが、あの島を五感でとらえ、さらに心地よく感じているのだ」。この奇妙な感覚は、ほとんど今日のAR(拡張現実)を先取りするものに思える。

 近代社会はいわば『告白』の路線で「自己表現」を重んじた。対して、今後のAR/VRの進化は、善しあしは別にして『孤独な散歩者の夢想』のような「自己への沈潜」を後押しするだろう。ひとびとは過去の記憶やネットの履歴を手がかりに、自分一人のために調整された拡張現実を孤独に生き始める……。

 トラブルだらけの現実と美しい拡張現実の間で、孤独な老人ルソーは「未来の私」を予告していた。この種のタイムスリップの発見こそが、半歩遅れで思想書を読む醍醐味なのだ。

(文芸評論家)