■会社と個人 11:18
会社に搾取されずにいかに会社を搾取するかというノウハウに磨きをかけている時間は全く無意味だと思う。
とまあこれだけ。
会社からちまちま小銭を取る方法なんかに腐心しても、自分は大きくならないよ、と。
あの「はてな」でさえ、そんなシーンがあったのだろうか、などと余計お世話か。
そういえば、と15年以上前のあるシーンを思い出す。
「搾取」ということば。
【しぼりとること(三省堂web)】
搾取している、されている。
あまりいい意味では使われぬ。
普段、同じ社内で働いている経営者と従業員だが、なかなかこういう話は出ないものだ。
かつて、知り合いの社長が言う。
「会社なんて、しょせん従業員からいかに搾取するか、なんですよね」
ハッとする。
『客から代金をいただき、色んな経費処理がされて、従業員に分配される』
その様子を、この経営者は「搾取」と表現した。
言っている意味は理解できた。
が、
あってはならぬ。
「従業員からの搾取」と考えた時点で、その会社は「ダークサイドに陥ちる」と思う。
会社といえば、一人でやってない限り、「組織で分業(チームワーク)」する姿が当然。
そのありさまを〝搾取〟というか「分業によるチームワーク」と言えるかで、その会社の〝人種〟は決まるのだ。
社長が「搾取している」と思っている会社の社員は、会社による搾取の「概念」を敏感に感じ取り、今度は会社から搾取する「意趣返し」をくわだてる。
まあ当然の反力か。
長い継続と発展は難しかろう、と。
経営の心根。
搾取だって、分配だって、結局は表現だけで同じじゃないか、と言うなかれ。
違う。
全然違う。
人種が違う。
遺伝子がちがう。
普段目にするのは、どちらか一色でない、「渾然とした」場面だ。
だからすぐには気付かない。
だが、にごった泥水が二層に分かれるように、静かにはっきりしてくるものだ。
もし会社の中で〝会社〟か、〝スタッフ〟どちらかが「搾取するすがた」を目にしたら。
急いで対策を考えたい。
「真のチームワーク」のために
なぜ「搾取」と感じるか。
「会社に搾取される労働者」という構図は、よくある。
マル経。
なぜか。
不透明なのだ。
鼻毛を抜いている上司。
上司はそのまた上司のタイコ持ちだ。
派閥に汲々とする先輩。
仕事そっちのけで会議の多数派工作にはしる。
自分の実績は(客観的に)出ている。
が、(客観的に見て)評価から洩れている。
「分配のしくみ」や「評価の目盛り」が曖昧、不透明。
そこは猜疑心を生みやすい。
スタッフがそう感じない仕組み。
透明。
公平。
これを実現するのは、経営者の重要なミッションだ。