藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

山のてっぺんを見る。

人生でぶつかる壁がどんなものであろうと、山のてっぺんを見ろ、という言葉をいつも思い出すんだ。
そうすれば、おまえは偉大なものに心を向けていることができる。


このことを覚えていれば、どんな問題にぶつかっても、それがどんなに乗り越えがたく見えるときでも、おまえをくじけさせることはできないだろう。


どんなものでも、あの山のてっぺんよりは低い。
そんなものが、おまえを悩ませることはできないからな。


これが、わしがおまえに残しておきたいと思う、ひとつの考えだ。
いつかわしらがまた出会うことになるとしたら、それはあの山のてっぺんだろう。

(アルフォンソ・オーティズ テワ族 1973年)

「いつかわしらがまた出会うことになるとしたら、それはあの山のてっぺんだろう。」
なんとカッコいいさよならの言葉だろう。
自分もこんなこと言ってみたいものである。

神の目。

頭のよい人ほど
神を必要とする。
自分はなんでも知っているという
思考から自分を守るためにも

(ジョージ・ウェブ ピマ族 1995年)

「自分はなんでも知っているという 思考から自分を守るためにも」
言語で読んでみたい感じがするが、「神の目」という発想は面白い。
以前<a href="http://www." target="_blank">清水宏保さん</a>がコラムで語っていた「自分の客観性を追求する方法」にとても似ている。


アスリートが、本番で自我に食われてしまわないように、冷静に自分の力を発揮するための高度なメンタルコントロールの方法だった。
この一節は、それの「思考版」である。
常に自分の目を客観的な立場に置くために、いかに時分の意見に自信もたろうとも「神の目」を存在させ、常に対比の軸とする。
定点思考のための一つの奥義であろうと思う。

創造神への道

こんな言葉は、特に若い人にはどう聞こえるのだろう。
結論的な理屈のようにも思えてしまう(ほんとうにそんな「道」があるなんて思えない)かもしれないが、年をとると「実はそうだった」という感覚はだんだん濃くなってくるような気がする。
年配者と若年では、同じ言葉も「ま反対」に作用するのではないだろうか。

すべてのものが、あなたのために用意されている。
あなたの道は、前方にまっすぐ伸びている。
ときどき見えないこともあるが、それでも道はそこにある。
道がどこへ続いているのか、あなたは知らないかもしれないが、
どうしてもその道をたどっていかなければならない。
それは創造神への道であり、
あなたの前に伸びているのは、一本のその道だけなのだ。


(レオン・シェナンドア首長 オノンダーガ族 1990年)

「それは創造神への道」であり、あなたの前に伸びているのは「一本のその道だけ」なのだ。
実に強いことばである。
説得的。
まるでドラッカーの教えのようである。
と、かの首長がのたまったのは意外に新しく、90年のことだった。