藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

なぜにただ争う。

原発は是か非か、という問いは難しい。
吉本隆明でさえ、「扱いは大変だが、撤退すると文明の進歩が止まる」と言っていた。
つまり両面があるので検討を尽くせ、ということだろう。

批評の本質は新しい価値観の提示にある。価値観は事実の集積とは異なる。

「事実と真実は違う」とも言われる。(ややこしいが)
その「事実の集積」と価値観が違うのは当然だろう。

ぼくはそうは思わない。
そうであれば宗教の争いなどあるはずがない。
正義はつねに複数なのだ。

『正義は常に複数』
その人にとっての正義、自分にとっての正義がある。
お互い、相手にとっては「何の意味もない暴論」かもしれない。

世界のこれまでの外交の歴史とか、あるいは
ヤクザの抗争史なんかを見ていても当てはまる。

争いは「相手の正義」を理解しないとなくならない。
でも理解する姿勢があれば共生ができる、という筆者の議論を支持したいと思う。

事実と価値 東浩紀

2018年6月22日 15:30

弊社では『ゲンロン』という批評誌を定期刊行している。その最新号でデジタルゲームを取り上げた。インタビューあり論考あり年表ありの盛り沢山(だくさん)の内容で、売れ行きも好調だ。

ところがこの特集号、他方でゲーム業界で仕事をしてきたライターの方々から厳しいお叱りを受けている。業界の常識に無知だというのだ。

この齟齬(そご)はなにを意味するのだろうか。じつは弊社がこのような非難を受けるのははじめてではない。『ゲンロン』では批評史を振り返る企画を行ったことがあるが、そのときも似た抗議が寄せられた。いわく重要な批評家が抜けている、決定的な事件が無視されている、作品の評価が偏っている……。

専門家の意見には謙虚に耳を傾けねばならない。とはいえぼくの考えでは、このような反応の存在は、批評の役割について根本的な誤解があることを示してもいる。

批評の本質は新しい価値観の提示にある。価値観は事実の集積とは異なる。いつだれのなにが出版され、何万部売れたかといった名前や数字は、客観的な事実である。それはゆるがせにできないが、そこからそのまま価値が出てくるわけではない。同じ現象に異なった評価が下されることはありうるし、むしろ文化にとっては複数の価値観が並列するのが好ましい。批評の機能は、まさにそのような「複数価値の併存状況」を作り、業界や読者の常識を揺るがすことにある。だから、批評が「業界の常識」とずれるのはあたりまえなのだ。というよりも、そのずれがなければ、そもそも批評には存在価値がないのである。

ところが日本ではこの前提がほとんど共有されていない。だから価値の言説である批評を事実の言説として受け取り、「まちがっている」と反応する読者が現れる。事実と価値がきちんと区別されていないわけだ。

そしてぼくは最近、これはもしかしたら、日本社会全体に共通する弱点なのかもしれないとも思い始めている。

人間は事実は共有できる。けれども価値は必ずしも共有できない。同じ事実から異なった価値が導かれることはあるし、その差異を認めなければ人々の共生はありえない。けれども日本人は、事実さえ共有すれば、必然的に価値も共有できると思い込んでいるところがあるのではないか。

ぼくがそう感じるようになったのは、震災後の原発をめぐる議論を眺めてのことである。原発がいいか悪いか、それは結局は価値観の問題である。けれども多くのひとが、それを事実をめぐる問題だと捉えている。正しいデータに基づいて正しく議論すれば、自分と同じ結論に達するはずだと信じている。その結果、この数年、たがいに「おまえはまちがっている」と非難しあい、感情的な溝を深める光景が繰り返されている。

けれども、人間は本当に、正しい事実に基づき正しく議論すれば、みな同じ結論に到達するのだろうか。ぼくはそうは思わない。そうであれば宗教の争いなどあるはずがない。正義はつねに複数なのだ。

日本人は「話せばわかる」の理想をどこかで信じている。けれど本当は「話してもわかりあえない」ことがあると諦めること、それこそが共生の道のはずだ。事実と価値を分ける批評は、その諦め=共生の道を伝えるための重要な手段だとぼくは考えている。

(批評家)

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