藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

この先の世論。

この一年、メディアの報道と一般国民の選挙という意思表示の結果がねじれている。
風評が瞬間風速的に起こっている、というのはあるだろうけれど、以前に比べれば遥かに「直接の意思表示」をする人が増えたのは間違いない。
「メディアと権力のもたれ合い」とよく言われてきたけれど、「実はあまり目のあたりにすることのなかったできごと」は日増しに露出機会を増している。

 ふりかえれば新しいメディアの登場によって民主主義のかたちが変わってきたのが近代の歴史だった。今また新たな時代の波が押し寄せているとみるべきなのだろう。

今はまだ、つぶやきベースのコメントの集合体だけれど 、そう遠くないうちにネットが国民の意思表示を正式に示す時代になると思う。
「どうせ選挙なんて」というこれまでで最大の無力感から解放された僕たちは、反対に選挙に熱中する時代が来るかもしれない。
ちょっと楽しみな気がしませんか。

世論形成が危ない SNS政治に「待った」 論説主幹 芹川洋一

 米国で、欧州で、今、政治変動をもたらしている背景には何があるのだろうか。グローバル化、経済格差、移民・難民、政党不信……。忘れてはならないものがある。メディアだ。ツイッターフェイスブックといった交流サイト(SNS)が政治をつき動かす武器になっているからだ。

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 これまで世論形成の主役の座をしめてきたのは新聞やテレビなどマスメディアだった。送り手から受け手へのタテ型の情報の流れだ。
 人と人とのヨコ型のつながりであるSNSがそれを変えつつある。ネットによって政治家と個人が直結、マスメディアを間にはさまない「中抜き」の構図だ。
 民主政治のポイントは社会の合意づくりである。そのとき影響を及ぼすのは世論の動向だが、あらわれ方が違ってきているのだ。
 ふりかえれば新しいメディアの登場によって民主主義のかたちが変わってきたのが近代の歴史だった。今また新たな時代の波が押し寄せているとみるべきなのだろう。
 「ハーバーマス(ドイツの哲学者)がいっているように、新聞を読んで、サロンでコーヒーを飲みながら政治を語るというのがあらかじめ想定された近代の民主主義の姿なんですよ」――慶大の曽根泰教教授(政治学)の解説だ。
 18、19世紀、市民や貴族がコーヒーハウスやサロンで議論しながら世論を形成していった。新聞の存在がその前提にあった。活字メディアと民主政治は切っても切れない関係である。
 日本の近現代史を思いおこしても、大正デモクラシーでは雑誌が世論形成の先鋒(せんぽう)となった。『中央公論』1916年1月号に掲載された吉野作造の「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」がその代表例だ。
 ラジオが加わるのが次の段階である。首相として初めて使ったのは浜口雄幸で29年のこと。
 巧みだったのは近衛文麿だ。37年6月の第1次内閣の組閣の夜、自らマイクにむかった。近衛ブームをもたらしたひとつの要因はラジオだった。モデルは外にあった。ヒトラーである。ラジオと映画を駆使し権力を確立していったのはよく知られている。
 時の政治リーダーは、新メディアとともにやってくる。テレビ時代の幕開けの象徴的なできごとがある。60年の米大統領選挙だ。初のテレビ討論会で、ケネディは若き指導者の印象を与えた。しかめっ面で見ばえのしないニクソンを制したのは、画面から伝わってくるイメージだった。
 日本でも93年の細川護熙内閣は、当時、テレポリティクス(テレビ政治)という言葉が使われはじめたように、テレビが呼びこんだ政権だった。小泉純一郎首相の劇場型政治もテレビなしには成立しなかった。
 そしてツイッターでどんどん発信するトランプ米大統領のSNS政治。日本でも橋下徹氏がツイッターでマスメディア批判などを繰りひろげていたのは記憶に新しい。
 世論をいかに自らの方に引きつけて権力を握っていくか。世論をめぐる闘争で、新たに登場するメディアはしばしば強力な政治の飛び道具になる。
 それではマスメディアとSNSによる世論形成の違いは何なのか。
 明治大の竹下俊郎教授(社会学)によると、マスメディアは専門性をもった送り手から一般の人びとにむかってメッセージが伝えられる垂直型の「情報普及のメディア」だ。SNSは趣味やイデオロギーなど共通点を持つ同好の士が結びつく水平型の「つながりと共感のメディア」である。
 共感や好意が先にあるから、情報が事実かどうかより「いいね!」「シェア」で反応しがちだ。フェイク(偽)ニュースは問題にならない。ポスト・トゥルース(事実無視)でもいっこうに構わない。オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)がまかり通る。
 事実と異なっていれば「誤報」として信用失墜につながるマスメディアとの根本的な違いだ。SNS世論の危うさの構造問題がここにある。
 もう一つ、ネットの世界では「サイバー・カスケード」とよばれる現象もあらわれる。小さな流れが階段状の滝をくだるうちに奔流となるように、似たもの同士で議論すれば極端な意見になっていき、集団分極化を招く危うさである。
 根拠のない情報で世論が操作されていては民主政治は成り立たない。極論をぶつけあっていても社会の合意は得られない。それはポピュリズム大衆迎合主義)をうむ土壌でもある。
 同じ方向の情報ばかりに触れてしまうネット。ムードに流されやすいテレビ。論理的な思考は活字だが、新聞でさえ「悪くすれば、少数の人間が自分の目的のために社会解体を宣伝する際の道具になる」(リップマン『世論』22年・掛川トミ子訳)といわれた。
 そうだとすればネット・テレビ・雑誌・新聞が互いにチェックしながら、ゆがんだ世論形成にならないようにしていくしかない。求められるのは客観主義にもとづく正確な事実、データ・証拠による比較分析、全体状況と時間軸の中でとらえていく思考だ。
 自戒をこめてだが、そうした点こそ、とくに新聞が果たさなければならない役割である。米欧でおこっていることは日本にとって決して無縁ではない。