藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

読書とは何か。


なぜ書評などするのか。
それはそうと、何で本なぞ読むのか。


自宅の「積ん読本」ざっと200冊。


休日前など気合いを入れたり、敗れたり、だが。


目の当たりにした本の小山を前にふと。

たといこの本全部読んだとて、それが何になるのだろうと。


今よりはちょっと物知りになるかもしれぬ。
まあそれくらいか。(驚)


だのにこれだけのものをギッチリ読めば、何ヶ月分かの休日や平日の自由時間はつぶれる。


テーマを絞るか。


いやいや。



けれど何より萎えるのは、愛読書、とも思っている本をたまに手に取りパラパラ見ると、あたかも初見のごとく感じるとき。


ホウホウ、なんて再び(新鮮に)読み入ったりしてるが、一体、そんなんで読書の効果なぞあるのか。(嘆)


特に自分の場合は気に入った本にぶち当たると超スローモードになり、いちいち付箋を貼ったり、目次を書き出してみたりしてると、まったく量が捗らぬ。


長々と愚痴ったが、
そんな読書そのものについての疑問、をここ最近感じていた。


そういえば


梅田望夫さんなぞは、そういえばあったな、と思ってブログをたどる。
と、なんとまたも「悲観主義オプティミズム」のエントリに帰着。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070228


自分はこの話題がよほど気になるようで、苦笑する。


さて。


梅田さんにとっての読書とは、というテーマはずい分前に解決されていた。(汗)

僕はこれまでにたくさんの本を読んできたが、内容を記憶するという習慣がなく、そのときどきの人生における喫緊の問題に何か指針を得たいという一心で、そのときどきの自分が欲している信号を求めてさまようような読書をしてきた。


精読して知を溜め込むということにはいっさい興味がなく、生きるために飲む水を求めるような読書と言えば近いだろうか。


アラン「定義集」も過去に何度か読んだが、その内容を記憶していないため、読み返すたびにかえって新鮮だ。


学者先生たちの本の読み方と、我々市井の人間の本の読み方は全く違っていてよいものだ、といつも思う。

記憶には残っていなくとも、生きるうえで強く影響を受けることができれば、それで十分だ。


さすが。
示唆的だ。

精読して知を溜め込むということにはいっさい興味がなく、生きるために飲む水を求めるような読書と言えば近いだろうか。


「学者先生たちの本の読み方と、全く違っていてよいものだ、といつも思う」
「記憶には残っていなくとも、生きるうえで強く影響を受けることができれば、それで十分だ。」


まったく、まったくそう思った。
最近感じていた疑問が、今日(日曜)氷解。


したがって、これからは

「強く影響を受ける本」とそうでない本、をなるたけ早めに見分けることも大事だな、とあらため思う。


とはいっても白か黒かの世界ではないから、ひよこの雄雌鑑定みたいにはいかないが、なんとなく読書法のヒントがつかめたような気がする。


こんなことも今にして、だが。(嘆)


書評、の意味


さて、自分の場合「こんな本を読みましたよ」とか「この本はこんなことが書いてあるよ」という主旨の書評はほとんど意味がない。


自分ごときがわざわざそんなものを書かずとも、書評の名人はあまたいる。


書評し、しかもわざわざブログなどにupするのは、まさに
「自分が生きていく上で(強く)影響を受けたものの記録」に尽きる。


7つの習慣とか、これまで執拗にとり上げた本は、そんな一冊だった。


少々気恥ずかしくとも、自分の気持ちの変化などを、できるだけそのままup
しておく。


畢竟、自分の書評は、


『四十過ぎのある日本人の男が、
「その本の影響を受け、その後の何か(価値観、思考、ふるまい、言葉遣い、服装や表情、など)が変わったよ、という記録」
を残すことで、それが後年「偶然通りかかった誰か」の参考になるかもしれない、とただ信じて残すもの』


ということになった。


ご苦労なことか。