藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分のチカラ。


自分も含め、何か不安や不満に出くわしたときのこと。


それを嘆き。
身の不幸を呪い。
他人にこぼし。
酒を飲み。


うっぷんなど晴らし。


人それぞれに、まあ「心の平衡」を保つようなやり方はある。


そんなときに重要だと思うことは、「環境は造り替えられるのだ」という意識があるかどうか。
この場合の環境とは。

周囲にいる人。
職場。
家族。
交際相手。
友人。
近隣の人。
住む場所。

こんなものが「環境」の正体か。


どれ一つとして「自分で選択できぬ」ものなどない。
また相手との関係を改善できぬものも、ない。(悪影響しかない友人、などとは付き合わない、という選択だが)


それから先の五年、十年、二十年、と。
そんな長さで考えた場合に「どのような環境に我が身を置くか?」ということは、なかなか大事なテーマではないか。

けっこう自分がやれること

どうしてそんなことを思いついたかというと、最近これまでの自分などを見返して、思うのだ。
学生時代の「暗闇歩行」はともかく、それなりに頑張ってきた感のある社会人になってからも。

その環境、環境においては、まあ懸命にやってきた、か。と。


ただ、その環境を、「環境自身」をマネジメントしてやろう、とまでの意識はなかった。

まあその時々の「自分の周囲」というものは、ある種「創造主から賜ったもの」みたいな感じで、反対に「自分が選択し、変えてゆくのだ」という意識は希薄だった。


最近は明確に思う。
周囲の環境を「思う方向」にコントロールし、またその行く先を見ようとすること、は目標の達成には不可欠だと。


目標があれば、その達成に向け「いかに環境を作るか」ということは車の両輪のようなものか。


意外にやりたいこと(目標)と「周囲の環境」が分離し、空回りしていることは多いのではないか。

目標が決まる。


なら、それに向くように「環境」を作りこむ。


周囲は自分の意志と力で、どうにでもなるのだ。
そう考えるとずい分自分だけでもやれることがあるものだ。