藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分を守る力。

例えば。
自分の住んでいる世界、という"器"があると思う。
その器が高いとか低いとか、高級とか低俗とか、思想や宗教があるとかないとか。
それはともかく。
その器の中の「価値観」に、自分たちは影響を受けて育つ。
水槽の中の熱帯魚のように、自分たちは生まれおちた場所や、また生育の環境に少なからぬ影響を受けて育つものである。
戦争を知らない子供たち」はまさに名言だけれど、これこそ「(戦争のような)環境の激変に晒されていないものに、そのような外的環境を意識せよ、といっても無理というもの」の典型だろう。
現に、戦後の団塊世代以降、自分たちは、ある種不思議がられつつも、戦中派には未知の価値観の中で生きてきた。

何が言いたいか。
つまり、失業する、とか大病する、とか人生の刺激とか挫折の"絶対値"ではなく、「これまで自分の歩んできた刺激度」に対する「今回の刺激の具合」でしか、自分の状態を推し量れないのが現代人なのではないだろうか。
それは多分、理不尽に徴兵され、しかし国家としては戦争を奨励し、不条理に肉親が戦死した、という激烈な体験をした人から見れば、あり得ない程の脆い性質なのだと思う。
だが、自分が体験していない「痛み」を想像だけで自分のものにするのは、正直難しいと思う。

従って「世代をまたがった人たち」と対話する場合には「自分の価値観の絶対値」を捨ててかからねばならないということだろう。
そうでなければ、相手は「聞く耳」すらもたない。
「ワシらの若いころは・・」という話は、聞く耳のある聞き手には有効であるが、説得の手段としては全く相手に響かないと思われるのである。

なので、まず第一に自分より目下のジェネレーション世代と話をする時には、自分の価値観を「絶対」にして話をしないこと。
そしてまた、彼らの「今の悩みこそが、最大の問題なのだ」という相手の緊急度をこそ優先して考えるような視点が必要になってくるだろうと思う。
育児休暇、とか時短勤務とかは、決して瑣末な話題ではないのである。

そして、何より悩む当事者の若者にとってみても「自分のコップの中の嵐」ではあるけれど、狭い自分の照りテリーとはいえ、真剣にその波風に対して向かってゆく真面目さは必要である。
そうした「自分の関係する世界を維持する力」の感覚に鈍いと、自分の周囲の小さな世界、ですら崩壊することもままあると思う。
小さければそれなりに、それでも自分の「国域」を守る意識は持っていなければならないのではないだろうか。