藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

表現者となること。


音が埋もれる。
最近曲を弾くたびに、特に最近そんな感じを持つ。



音を紡ぐ、という。
つむぐ……


なんともよく言ったものだ。

時間の「進行方向」に主旋律やベース音を紡ぐ。
それとは別に同時に弾く和音もその「和音の一まとまり」の中で紡がれる。


主音、サブ音、装飾音、ドミナント、属七……それぞれは「一和音」の中でまったく独立した役割があるのだ。


その他には。

一小節の中には「主題」が潜んでいたり。

また数小節でその「テーマ」を構成していたり。

それがまた何度も形を変えて「再現」や「展開」されていたり。

それが「楽章」としてある物語性を帯びていたり。
そして、楽章が3つも4つもあって一つの交響曲となっていたり。

意図を汲むこと


特に今は対話できない「古典派」の作曲家のことなど。
いろんな事前の研究(アナリーゼ)とか、歴史の認識などが必要になる。


ただ、先人のそんな足跡を辿り、一歩でもそれに近づこうとすることは、楽しい。
なんだか拙く、ヨチヨチながらもベートーヴェンの足取りを辿っているようなのだ。

どの曲にも「無駄な音符」など一つもない、とはよく聞かされる言葉だが、なんとなくそのリアリティを感じたり。


あるレベル以上の思いで作られた作品を理解するには、ただ聴くだけでも一定以上のレベルが必要になる。
ただ、その理屈が分かって、より深いレベルの共感が得られれば、それは表層的な興味のそれではなく、より深い、根源的な興味を引き出すのだろう。


その意味では、一定の勉強をして芸術に向かうことは、より深い快感へと向かうことでもあるようだ。


一定の「マニア」にのみ分かる世界だからこそ、より深く、複雑で面白い。


芸術の面白みはそんなところにその本質があるのかもしれない。