藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自己否定の時代


トヨタが最高益を更新する中、クリントンは私財を六億以上つぎ込み、ミャンマーでは史上最悪のサイクロン被害が起こり、また高校生が二人殺害され、「上から目線」と高齢者医療は叩かれ、福井の中学では「ホームレスになりそうな人」が実名で文集に載ったという。

中でも船場吉兆が「料理食材そのもの」を使い回ししていた、というのは象徴的な衝撃だった。


料理人が料理を裏切り、
肉やが肉を裏切り、
政治家は政治を見ていない。


警官が公序良俗に反し、
教師が生徒に手をかける。


料理人が食材を仕入れ、高値で出すのは自由だ。
だが「使いまわす」のはもはや料理人ではない。


自分の、職業人としての「存在そのもの」それさえ欺く。
これが現代の特徴ではないか。

親が親を放棄し、子に手をかける。


これもそんな文脈に見える。
もはや、そんなこと言ってられないのだろうか。


で、いろんな「立場」を考えてみる。

社長が会社を放棄する。
男が男を、女が女を放棄する。
学生は学問を放棄。
親も教師も教育を放棄。


そんなあまたのニュースに殺伐とするが。


自分の存在、の定義


本業放棄、の嵐が吹き荒れる中か。


逆に「自分の存在」と「役割」を自分で定義し、それを着々とやり切ることは自らのポジションに錨を降ろし、自らの定位を示す重要な印となる。


なんでもいい。

学生、として学ぶテーマと目標を宣言したり。
夫婦で互いの役割を決め、こうあれかし、の家庭像を唱えたり。


自分の立場で、「自分の主義」をはっきりと外部に伝える。

それが自分のアイデンティティにもなり、またそれが自らの中心線にもなるのではないか。


他人さまがどうこう、ではない。
自分の、自分の生き方の「主義、主張、目標」そんなものを自分で持てるかどうか。


みんなが船場吉兆にならないために。
(吉兆の何の恨みもないが)


「これ以上ない」という自分なりの「リミット」を持っていたい。
それが自分の中の「一線」であり、「人格」にもなるのだろう。


何となく最近のニュースのハチャメチャ度合に納得のいった今日だった。