藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

足りないものを考える。

日常、仕事をしていてもあまり意識しないことだけど。
音楽とか、多分他の習い事とかを嗜(たしな)む人には分かるのじゃないかと思う。
「足りないもの」のこと。

・まず、曲の理解力が足りない。
例えば、譜面を読むスピードも、細かさも足りない。
曲全体の構成を把握する力も足りない。
場所ごとにテーマ(主題)があり、その意味を把握する力も足りない。
作曲家の創作の動機や、時代背景の知識も足りない。
また楽器の知識の進化や、今の楽器の技術的なメカニズムについての知識も足りない。

・そして、フィジカルに足りない。
鍵盤を走るスピードとか。
五本の指の音を均質に鳴らす技術とか。
スケールを弾く技術。
アルペジオを弾く技術。
スタカートを弾く技術。
スタカートを強弱、軽重で弾き分ける技術。
ppp〜fffまで、ボリュームをコントロールする技術。特にグラデーションのかかっている場合の。
休符の意識、休符の過ごし方とか。

・さらに足りないもの。
二声を同時に弾く技術。
三声を表現する技術。
ペダルの踏み分け。
演奏と呼吸のタイミングを操る技術。


そうして、"こうした技術たち"を個別に身につければ、それが「全体を理想的に校正できるか」というと、またそうではなく、今度は”全体での表現力”を必要とする。
まるで足りない土台に、何か「継ぎ接ぎ(つぎはぎ)」での仕事をしたあげく、さらに「全体を創造する力」が必要になるという気の遠くなる作業なのである。

プロといわれる人たちは、そしてこうした「気の遠くなること」を同時にこなす修練を積んでいる人の集団を言い、恐らくは「そのくらいのレベル」に到達して初めてそのプレイヤーの「音楽的な人柄」のようなものが浮き上がってくるように思う。

”基礎無きところに美しさなし”ということなのだが、今の自分には何が足りず、また「将来の自分はどの様な表現者になりたいのか」ということを同時に考える。
お稽古ごと、というのはそこに醍醐味があるのだろう。

先は長いが、離れられない存在なのである。