藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

先生の不正


大分県教育委員会の不正。
「教員採用」についての「教育委員会」の「点数改ざん」された事件。


普通の盗みではない。
「校長や教頭」は「ワイロ」で昇進。


現場では慣行として、それほど罪悪感もなかったのだろう。
それは他の偽装事件と変わらぬ。


合格者数の「半数近く」が何らかの不正に係わっていた、とあっては組織ぐるみというか、毒が回りきっていたというか、もう不正の温床としか思えない。


出自の問題


他の都道府県でもあったんじゃないの?と訝りたくなるなるが、それはともかく。


その後の対応を聞いて驚く。

なんと「過去すでに不正に合格した教師たち」への処分が決まっていないというのだ。


というか、「止めさせては困る」という人が少なからず関係者や生徒の父母にいるという。

ズルして先生になった人。
ただその後の仕事に「一定の評価がある」と。


そのような対応でいいのだろうか。
教師として公明正大である、というのは基本要件ではないか。


ワイロを送り、その「規範」のズレた人物はその後の教育が正しくできるだろうか。


教師なんである。
くどいが昔、「カンニングしたことがある教師」ではない。

「不正をして教師になった」人たちである。


一度、原点に返り、何らかの償いをする、という手順なしに「それから先」はないのではないか。


逆にそれを「許す」という世間の態度は、子供たちに「世の中、そんなテキトーなものだ」という印象を明確に与えるだろう。


何だか今週モヤモヤしていたのはどうも一連の報道のこの辺りのことらしい。


不正はなくならぬ。
だがその後始末のつけ方、には我われの価値観というか「流儀」が出ると思う。


せめてそこくらいは潔くありたい。
近ごろ大人、カッコ悪すぎ、である。