オリンピックも閉会式。
そして十億人が視聴したという開会式。
そこに偽装が三つもあったとは知らなかった。
一、開会式の歌「「歌唱祖国」は口パクだった
二、足あと、を模した花火はほとんどがテレビ向けのCGだった
三、「56民族の児童が集まり」と称したが、実際はすべて漢民族の衣装つけだった
花火はともかく。
それにしても開会式で口パクしていた少女の気持ちを考えると、どうにも気持ち悪い。
自分は何のためにここで口マネをしているのだろう、という心情が察され、どうにも理不尽な思いがする。
当人は幼いから、そこまで深刻ではなかったかもしれないが。
「外見のよい子と歌の上手い子」を選んだ結果の顛末らしいが、どうもおかしい。
そして政府が、その後の報道やネットの書き込みを必死に消している、というのも変だ。
偽装を認めぬその態度は、日本の偽装や餃子など一連の心理状態を彷彿させる。
オープン化と共に
世界的なオープン化の潮流と、五輪後の「揺り戻し」のトレンド。
いずれ今の中国の「情報統制」は瓦解すると思うが、それにしても分別がつかないのは当事者ばかり、いやはや自分のことは見えぬモノだ、と妙に教訓。
オリンピック、というイベントを
・国のためにイベントとして利用する
・各スポーツ業界のために利用する
・自国の、科目別スポーツの振興のためにアピールする
といろんな要素が見受けられる。
アスリートたちが、決められたルールの中で、トップを目指すこと。
アテネで始まった五輪は、結局この精神性に帰着するのだろう。
オリンピック、を「何かに利用する」のではなく。
その競技者たちがベストを尽くす環境を主宰することで、そのインフラづくりを行うこと。
五輪の主宰国には、そんな意味があるのだろう。
中国で開催された今回のオリンピックは、そんな「国の威信」と「イベント」という両面からの思惑が映し出された催しだった。
この後の中国の様子にも注目したい。