藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

五十代の予測。(四十からやっておくこと)


さて過日、五十過ぎの先輩に聞く。
「今の、これからについてのテーマは何ですか?」

「それは死に方」


と即答だった。
日々生活するのにアップアップで、なかなかそんな先のことなど考えられぬ、という人もいたが、それで気づいたこと。


一番後からみて辛そうなのは「忙殺」である。

(それにしても忙殺、とはよく言ったものだ。まさにその忙しい中「殺されて」いるようなものである。気づいてから「返せ」といっても、もう戻らぬ)


気がついてみたら六十だった、というのは決して人ごとではない。
かと言って「立ち止まって考える」という表現をする人もいるが、あまり賛成できぬ。
こういう人は「ずーっと」立ち止まっているように思うのだ。


もっとも適した表現、て何だろう。




む。


「予測する」はどう。

常に、予測する。
「このまま行ったら、この先どうなる」
「この先、どうする」


先の先輩の死に方観、は「終末の予測」である。


終末を予測するからこそ、今がようやく見えてくる。


何でも同じか?


例えば、野球の試合が始まる。
つとつと、ゲームが進行する。


時間を逆行することなく、常に「連続して」時間は経つ。


少しずつ、回が進むうち、両社にいろんな状況が生まれてくる。
いわゆる「形勢」だ。


少しずつ形勢に変化が出るところで、「終局」を予測する。

「お客と付き合うには、トラブルになった時を想定せよ」は自分の先輩の金言だが、早いようでも四十代からは、「終末の予測」が自らの定位感を失わぬためのコツなのかも知れぬ。


詰まることろ、「それ」を正面から見つめることで今が見えてくるのだろう。
それから目を逸らしてはならない。


それ、を見つめるところから、ようやく始まるのだ。


ハラを括った、その瞬間から見えるものもある。


死生観、かも知れぬ。


ぜひ、年長者に問いかけてもらいたいものだ。