藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

プライドとの決別


本当の自分を見るために。

他人に対する「あらゆるプライド」など何の価値もないこと。


そして自分の中の「自我」はどうも邪魔になる。
それをなくさないと本当に自分を「俯瞰」するのは困難、というか不可能である。


逆に拠り所、としていいのは「自分に対する内なる矜持」だけである。


畢竟、この十年ほど(30〜40半ば)で自分が学んだことのトップ、といえばそんなことか。

あまたのプライドや鼻っ柱が砕け、恥をかき、そのたびに自分の小ささや、まあ世間の理不尽さみたいなものや、お金の厳しさ、などを経て、結局そんなことである。

特に、自分が今生活する中で自分のポジション的なもの(仕事であれ、家庭であれ、同僚や部下であれ、異性であれ)があることで、ケチなプライドなどが形成さるる。


「そんなこと」を感じ、気づく場面は日常、そんなに数多くない。
だから「ある程度の自分」はどうしても想像できてしまう。
それが邪魔なのだ。


そんなものを「なしにする」こと。

自分を鍛えるにはそんな観点が重要なのだ、とようやく思ったり。


今日いく職場では、自分には、きちんと席があり、部下がおり、同僚や客もおり。
そんな中では「野生の対応力」は身につかない。


ある日、親しかった客から「絶縁」を宣言されるかもしれない。


ある日、会社から「フリー」宣言をつきつけられるかもしれぬ。


そんな「これまでの経験」はともすれば明日からは「ない」かもしれない、という緊張感は、自分をよく鍛える。

常に一人。
常に一から。

そんな自分に対する戒めが、もっとも自分には有効なのではないか。


プルーストの言葉がふと。

幸福は身体にとってはためになる。
だが、精神を成長させるのは悲しみである」


マルセル・プルースト


人間の性質、を顕している。