藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

本質論に帰ること。


内田樹の研究室、河相塾でお話より。
元来、教育者として、「教育そのものの意味」については特にその語気は荒い内田さん。

巷の「若い小中高の教諭」の方々にぜひとも読んでもらいたい。
また若い生徒諸君も、「自分たちと学び」の意味を、一度「素」で考えてはどうか。

そして自分と同様のアラフォーならぬアパフォー(upper40ty)でも、「キャリア」とか「スキル」などと普段自分たちが濫用している言葉の意味を、再考する機会を得るだろう。


教育、とかの根源的意味。

「こんな勉強やることに何の意味があるのか」という身を切るような問いを自分に向けている。

この問いに、正面から組みあって「自分に矛盾のない解説」を述べられること。
というプラクティスなしに、いきなり子供とか、部下とか、生徒とかに「勉強せいや」というのはその構造に無理がある、と自分は思っている。
自分は少なくとも義務教育、大学生活を通して「そんなこと」について教師から「真剣な説明」を受けた記憶がない。

ただし「知識を得ること」を何か快感を得るようにして「楽しんでいる大人」を何人も見た記憶がある。

どちらかというと「そう言う人」の背中を見て、なんとなく勉強してきた感が自分などは強い。


だからあまり真剣ではなかった。
それどころか。

学ぶことは「知的には楽しいこと」であり、その楽しみは「遊び」にもとても近いものであり、またそれはま「性的快感」にも通じるくらいのものであり、ということを知ったのは、ここ数年のことである。(呆)


そしてまた、この類のテーマの脳科学の話は、翻って「科学(的な要素)の話」のつもりが「最も感情的な話」になってしまうジレンマがあるが、それそのものが脳なのだろうか、とも思う。

怒ったり、憎んだり、嫉妬したりしているときに知性の機能が上がるということはない。
これは確かである。

この指摘に、自分たちは本能的にうなずく。
そして、自分たちの子供や部下や生徒や、そしてそれが「自分の脳自身」においても同様であり、日々の指導やコミュニケーションはむしろそれとは「逆」にオペレイトされているという矛盾にも気づく。
内田氏は指摘する。(茂木さんたち脳科学者について)

この方々は、人間は「理解しがたいこと」を受け容れ理解しようと願い、それを受け容れるために脳の容量を押し広げているときに脳の情報処理能力が最高速になることを体験的にも理論的にも熟知しているからである。


「心を開く」ときに、脳の演算能力は向上し、「心を閉ざす」ときに、脳の機能は劣化する。

こういう話が我われ一人一人に「体感的」に理解され、それを後世に伝えてゆく。
それそのものが教育本来の姿、なのだろうと思う。

内田樹の醍醐味。


こういう本筋論を、我われにも十分分かる言葉で、繰り返し唱える人物は稀有である。
またその言説が、日々リアルタイムにブログ、という形で「フルオープン(引用フリー)」で提供されていることも驚きである。
内田樹の研究室、は近い将来、他の何ものとも違う存在、になるのではないか。


平成の福沢諭吉とか。
ちょっと自分には明確な表現ができないが。

<以下引用>

河合塾でお話


日曜は河合塾で講演。
去年も同じ頃に河合塾で予備校生たちを相手に講演をした。
先生たちの間に読者がけっこういて、お呼びくださったのである。
300人ほどの予備校生たちを前に「脱=市場原理の教育」というお題で2時間半近く話す(このところどこでもタイトルはいっしょである。中身はばらばらだけど)。
生徒たちは食い入るようにこちらを見つめている。コワイくらいである。
当然である。
彼らは日々「こんな勉強やることに何の意味があるのか」という身を切るような問いを自分に向けている。
そこに私のような人間が現れて「『こんな勉強をやることに何の意味があるのか』という問いそのものが市場原理に侵された思考なのである。いいから黙って勉強しなさい」というようなことを言い出すわけであるから、これは頭がぐちゃぐちゃになって当然である。
けれども、私はべつに有用な知識や情報をお伝えするために登壇したわけではない。
教育者が教場で行う仕事は一つだけである。
それは子どもたちの知性のパフォーマンスを向上させることである。
それに尽きる、と申し上げてよろしいであろう。
子どもたちの知的な不調の原因の過半は彼ら自身が自分の脳を活性化する術を理解していないからである。
学校ではなかなか教えてもらえない。
というのは、「機嫌のよい教師」「いつもにこにこしている先生」にあまりお目にかかる機会がないからである。
まことに理解に苦しむことであるが、「機嫌のよい教師」「いつもにこにこしている先生」を組織的に生み出すことの教育上の有効性について理解している人は教育行政の要路者の中にも教育について語る知識人の中にも、ほとんどいない。


脳の機能についてまじめに考えればすぐにわかるはずである。
私の知人友人の中には脳科学の専門家が養老先生、茂木さん、池谷さんと三人いる。
三人に共通しているのは、「オープンマインド」ということである。
いつもにこにこしている。
これは「たまたまそういう人だった」ということではない。
この方々は、人間は「理解しがたいこと」を受け容れ理解しようと願い、それを受け容れるために脳の容量を押し広げているときに脳の情報処理能力が最高速になることを体験的にも理論的にも熟知しているからである。
「心を開く」ときに、脳の演算能力は向上し、「心を閉ざす」ときに、脳の機能は劣化する。
怒ったり、憎んだり、嫉妬したりしているときに知性の機能が上がるということはない。
これは確かである。
だから、「怒っている知識人」とか「不機嫌な研究者」というのはそもそも形容矛盾なのである。
怒ったり不機嫌になったりしていたら脳のパフォーマンスが下がることを知らないのなら、彼らは知的職業に就くべきではない。
知っていてそうしているなら、彼らは自分の脳の機能を最大限まで向上させなければ対処できないようなチャレンジングな課題に直面していないということになる。
つまり、平たく言うと、「怒っている知識人」とか「不機嫌な研究者」というのは定義上「バカ」か「怠け者」か、その両方だということなのである(というようなことを書いてまたまた人を怒らせたら元も子もないじゃないか・・・というご叱正の声が聞こえてはくるのであるが)。
ともあれ、若い人たちは「自分の脳の機能をどう向上させるか」という課題に最優先で取り組んでいただきたいと思う。そして、それは「オープンマインドで生きる」ということである。
というわけで、実践的な教訓をいくつかご教授しておこう。
他人と意見が違ったら、とりあえず「キミの言う通りだ」と言ってみる。
そして、自分と意見の違う人の頭の中ではどういう推論がなされているのかを想像的に追体験してみる。
これは脳の容量を拡大するきわめて効率的な方法である。
他人が言っていることの意味がわからなかったら、とりあえず「にっこり」笑って、「ふんふん、で、それって具体的にはどういうことなの」と訊いてみる。
これは他人の知性のパフォーマンスを上げるよい方法である。
どう考えても、「バカと話す」よりは「賢い人と話す」方が愉快であるし生産的でもあるので、自分と話す相手の知性を向上させるためには不断の努力を怠ってはならぬのである。
とりあえずそれくらいから始められてはいかがであろうかと思う。