藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

将来への思い


親や学校の庇護にあり、取り立てて自分の「生きていく力」みたいなことはあまり思考しなくて良かった未成年。
それから社会人になるわけだが、社会人という存在も結構危うく、会社員であれ、医者や弁護士のようなホワイトワーカーであれ、「万一自分が働けなくなったら」、という問いに「それは大丈夫」といえることは稀である。

というか、多くの社会人たちは、一年のうち240日くらいを朝から夕方まで働き、また休日や夜の時間を使って家族とか友人とか、自分の趣味とか、いろんなことを目いっぱいこなしている。

社会人というのは相当な「時間的にまっとうに働く」ことと引き換えになりたっている。ということには「社会人になってから」気づいた自分。

万一、病気で一年も患おうものなら、よほどいい保険にでも入ってない限りは生活は困窮する。
という条件は高級ホワイトワーカーから、ブルーカラーでも大体同じである。
(ちょっと怖い現実)


思えば、自分の学生時代や、二十代など「健康」なだけで、他には何一つ担保するものもなく、それでも不安なく過ごしていた。
「みんなそうだから」と平気だったが、それはそれで結構なリスクである。


よく会社の経営者は「社員の給与の三か月分」を備蓄せよ、と言われるが、なかなか「万全の備えあり」と言える状態には程遠い。
若さ、とはそうしたものだろう、などとも思う。


それはともかく。


生きていく力。


周囲の庇護がなくなり、いよいよ自分で生きていく時、多くの場合は「そんな意識」をそれほど持たずに旅立っている。
例えば就職。


どんな会社に就職して、どんな経験を積んでいくか、というのは実はその「後々」に多大な影響があるものだが、案外、就職の動機というのは薄弱だ。


かくいう自分は、就職を決めるギリギリまでいわゆる「大企業志向」で初任給とか、生涯賃金とか、そんなものの多寡に興味の的が合っていた。
それから二十年も経った今なら「お粗末な話」で済むが、当時は大真面目。
仕事の種類などそっちのけだったのである。(呆)


最期はギリギリ外資のスマートさに惹かれ、入社を決意するも、その直前に訪問した中小企業の魅力に目が移ってそのまま。
依頼これまで、中小企業端をずっとあるくことになる。


力の種類。


先日、同級生で某上場メーカーに勤める友人と、それこそ二十年ぶりに再会。
お互い焼き鳥をほおばりながら、近況や本音を話す。


この年になると、あまり衒(てら)いなく
「子供とはどうだ」とか
「病気してないか」とか
「五十代以降はどうする」とか、本音でズバズバ話ができるのは、学生時代のありがたい友人ゆえである。

そうして、つくづく感じたこと。
「大企業で定年まできちんと生きていくための力」と「中小企業で船が沈まぬようにサバイバルする力」というのはずい分とその種類に差があること。


例えば、今は上場企業でも、役員レースの旬は四十代後半から、五十代前半。
「どの人物が出世レースの本命であり、またどの人物はもはや選外なのか」ということは、これからの自分の十年の仕事に、否が応でも関係してくるという。
「まあ、社内の潮目を読む力かな」と彼は言う。


彼は島耕作よろしく無派閥とのことだが、それでも周りの力関係の影響は受けるとのこと。
また、派閥に関係なく、「重要な決めごと」にはそれこそ「徹底した根回し」が不可欠だという。


根回しは数か月前の「ゴルフコンペ」から始まっていることもあり、当時の会議で「予定外の結論」にならないために、徹底してシミュレーションをするらしい。
その仕事ぶりは「万に一つもエラーを許さぬ」という心意気が中小企業のそれとはまったく違う迫力を感じた。

一方、ずい分のんきなこともある。
会社の設備投資がこれから大きく外れたり、また政府から規制を受けたり、あるいはエネルギー資源の交代(今はそれに近いが)で、会社の基幹産業が脅かされたり。


そんなことには、案外と意識は行き届いていない。
中小企業が、「自社が業界の大海原に小舟をこぎ出す様相」なのに対し、正に大舟にのるがごとし。

ようするに、お互い心配の中心が違うのだな。

とはいえ、これからは中小企業だけでなく、上場企業も「大傘の下の庇護」はなさそうだ、と呟く彼の表情はなかなかに精悍で、十分大企業にいて「狩りの力」を養っているようにも見えた。


サバイバル、という言葉の定義も超大企業と中小企業ではずい分違うものだと痛感。
自分の住む世界によって、生き残るために必要なスキルは「それなりに」違ってくるものだな、と思い知る。


さて、「これからの自分」に合ったサバイバル術を身につけていかねばな、と改め思う。