藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ギリギリの知恵。


日常生活。
仕事。
人間関係。
選択。
政治とか。


自分たちの生きる日常は、決してキレイな「分け目」があるわけではない。
むしろ、ない。
斑(まだら)だったり、グレーだったり、複雑に混じり合っていたりする。

「白か黒か」
「右か左か」
「イエスかノーか」
「行くか戻るか」

そんな風に「二分」できる問題などほとんどない。
どの決断にもメリットとデメリット。
そんなことに気付いたのも最近のことである。
(若い人には何が言いたいのか、伝わるだろうか。)


で、何が言いたいか。
物ごとには「一方的」な勝負決着、というのはないのだ、ということ。

右か左か、の間に。

だから「行くにせよ、戻るにせよ」どちらにしても「ギリギリの選択」が必要なのが通常のことである、ということ。

右に行けば、崖がある。
だが左に行けば海がある。


どちらに進み、また「その先」をどう考えてゆくのか。
自分たちの日常は、そんな「ややこしい」逡巡の連続でできている。


そして、絶対的な正解というのも存在しないことが多い。
どこまで行っても、その「対極の考え」というものは存在し、だからいろいろと考えを巡らせ、後悔のないように熟考して、一歩一歩を踏み出してゆくのである。

怖がって「判断停止」になるのも×。
だが、悪戯に「エイヤ!」と勢いだけでばくちを打つのも×。


考えに考え抜いて「ギリギリの知恵」を出す。
それが実は一番深い選択の方法なのである。
だから、あれこれと考え、あーでもない、こーでもない、と思案を巡らすことを「面倒くさい」と投げ出すのは非常にもったいない行為である。



「ただ悩む」ということには意味はないけれど「考え抜く」というのは自分を強くして、もう一歩先へ進むための必殺技なんである。


ちょっと自分の筆力では上手く伝えられないけれど、自分たちの意思決定や選択は、「そんな原理」で動いているのだ、ということを書き留めておきたかったのである。