藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

今の自分を感じること

しゅん 【▽旬】

(1)魚介類・野菜などの、味のよい食べ頃の時期。出盛りの時期。
「シュン;の野菜」
(2)物事を行うのに最適の時期。

自分の「味がよく」「最適の時期」という四季のある日本ならではの風物詩。
それは川魚とか、野菜だけではなく。
人にもあるのではないかと思う。

自分の旬。


なにか「食べごろ」というと女性なら二十代とか、男性なら四十代とか、そんな画一的なイメージはなくもないだろう。
ただ魚や山菜で細かく知られている「それぞれの旬」というのは、それほど単純なものではない。
まして人間である。

人の旬は、その人自身の「人格の中にある」といってもいいのではないかと思う。

つまり、「いい女」と周囲のだれからも言われる人(不思議にいるものである)は、四十路、五十路、六十路、一向に平気である。
艶っぽい。
年齢が「関係なく」はないだろう。
だが年齢を寄せ付けない、というか「跳ね返す」だけの魅力があると思う。
要は熟成の具合、なのだと思う。


そして男性は。

男の旬。


二十代から七十代まで。
男の守備範囲も実に広い。
だが、圧倒的に四十路くらいで「旬」を過ぎてカスカスになってしまう男性が多い。
最近は四十で「加齢臭」などという。(カレーの臭いのことかと思ったら、違った。)
自分はそこで懸命に抵抗を試みて、これでも孤軍奮闘している一兵士である。(との意識が強い)


旬を過ぎた魚は脂がまわりすぎていたり、パサパサしている。

だが我われは魚ではない。

その一番のよりどころは「精神」である。


禿げて皺が滲んでいようとも、若々しい人はいくらもいる。

男も女も「旬」は本人が、そのメンタリティとバイタリティで決めてゆくものなのだろう。


五十、六十を超えても信じられないくらい妖艶な女性をかつて何人か見たことがある。
老若を決めるのはハードウェアだけではない。
本当に精神と向き合ってこそ「その人自身」の旬が決まってくるのだと思う。


まだまだ「旬」でいたいではありませんか。