矛盾したような、どうでもいいような話なのだけれど。
ただ単に「待つ」ということについて我慢が出来なくなってきている。
なので空港とか、物品の購入とか、そんな事象に対しては、もうてんで「向かう気」が起きない。
なので混雑している高速道路とか、空港とか、繁華街とかを想像すると、ハナから外出意欲が萎えてしまう。
スタバで混雑していて、思わぬ時間待たされたり、夜(特に複数人で)食事していて、注文したものが来ないとか、店の人
が全然見当たらない、とかになると結構辛い。
年とともに短気になってきたのだろうか。
なので、外出して予期せぬ「空白」が発生する可能性のある時は、とにかく「時間つぶし」できるものを携行してゆくようにしている。
携帯電話を携えてひたすら見入っている若者も多いが、ちょっと携帯で長文を読む気にはなれず、本とか紙の資料を持っていくことが多い。
一分〜三十分くらいの空白を埋めるのに、本はとてもよい。
それはともかく。
一方。
人と話をする時のこと。
こちらは、何だか「もう少し時間をかけてみよう」と思うことが俄然多くなった。
以前なら「もうダメ」とか「それでは中止」「別の相手に」と割り切っていたような場面でも、「何とか説得できないだろうか」とか、ひょっとしてこういう条件を提示すれば気持ちが変わるかも知れない、とかそんな風に結構「粘り強く待ってみる」というような性質が出てきたようにも思う。
特に自分より目下の、とりわけ若い人にほどそう思う。
ちょっとした爺ィ目線とでも言おうか。
「ほうほう、なるほど。だから勉強する気にならないんだね?いやぁ、俺もそうだったなぁ…」なんて妙に共感してしまったり、また「あれぇ。そんな風に思うのかぁ。へえ〜純粋なもんだねぇ」とか感心してしまったりすることが多いのだ。
これはちょっとした爺イ化現象ではないだろうか。
何でも分かった風なことを言って、あまり相手に論戦を挑むということをしない。
もう面倒になってきたのかしらん、と思ったが、そうでもない。
多分、相手に「ちょっと共感する余裕」が出てきたのだと思う。
自分が「こう言いたい」と思ったとたん、相手のことが見えなくなって、ついつい「一方通行」になりがちな若かりし頃に比べて、「相手を見ずに言いたいことを言う」ということがどれほど「伝達率が低いものか」ということを知っているのである。
だから相手を一方的に説き伏せるようなことも、あまりなくなった。(つもり)
7つの習慣の一つ「理解してから理解される」はまたしてもこんなところに現れていた。
原理原則、恐るべし。