昨日「苦悩は"それ"を"試練だ"と捉えられる人にのみ、そう理解される」というようなことを書いた。
『苦悩はそれを乗り越えられる者だけに訪れる』、というちょっと宗教チックな表現が「お前は運命論者か」というような批判的なのと、「実は自分にとってもそう思える」というような共感コメントに分かれて印象的だった。
よくコップの水が半分になったとき、「半分しかない」と理解するか、「まだ半分」と解釈するか、という話がある。
あれて似ている。
目の前に「楽しいことなど何もない」と考える姿勢は、ただちに「辺りの景色を灰色に」塗り替える。
自殺する人の直前の気持ちを聞くと「自分の見ている景色の"色がなくなる"」というから、あながち単なる比喩でもない。
目の前にある「事象(できごと)」は森羅万象、まあある程度「平均的に偏在している」と思う。
好機もあれば、不幸の種も訪れる。
そんな「ごく自然な環境」の中で自らの「指向性」を決めてゆくのは、この「ものの捉え方」ではないだろうか。
「捉え方」というよりも「捉える能力」と言っていい。
「もうだめだ」と思って諦めたら、そこでthe end。
「もうだめかもしれぬ」けど、「本当にダメになるまで続け」たら案外に寿命は延びる。
そして、さらに「本当に終わるまで、自分からは諦めるもんか」という気持ちでいると、そのまま何とか継続して、次に新しい展開に出会うことも実に多い。
敗北の半分くらいの原因は、「自らの諦め」にあるのではないだろうか。
これはもう自らの「習性」と言っていいレベルの「自分の行動特性」の話である。
人の心は「安きに流れやすい」。
ラクをするのが人間でもある。
「もうダメだ」と万歳すれば、それ以降は楽になれる。
「悩みごと」にぶつかっても、それを真正面から受け止めずに、心の中で放置してしまえば「それ」と戦うことはしなくて済む。
だが、そこに研鑽もなく、つまり成長もないのである。
逆に「難儀なこと」を目にした途端に「これぞ我が意を得たり」とばかりにその困難に立ち向かってゆくような、そんな「武勇」を常に持つことができれば、どんどんと成長する機会があろうと思う。
本当に人の心は「考える目線次第」で答えが180度違ってくるものである。
まあ、それほど人の心というのは柔軟で、しかしデリケートなものなのかもしれない。
一たび「困難」を見かけたら、躊躇せずに立ち向かっていけるマインドをぜひ忘れないでいたいと思う。