藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

プロだからこそ。


さる有名なテニスプレーヤーの一言が気になる。

「テニスが上手いくらいで人生有頂天になってはいけない」

プロのテニスプレーヤーは、その日常のほとんどを「テニス」に費やしている。
むろんテニスに限らないだろうが、傍から見るプロたちの日常はまさに「日々を捧げている」というに相応しい。
プロフェッショナルを見ていると、一日の大半、幼少時から成人まで、あるいは壮年期までの大半を費やしてようやく「常人の域」を超えた境地に辿りつくようである。
傍目には、その努力の「方法が間違って」いたり、ご本人には「合っていなかったり」したらどうするのだろうか、と心配になってしまうが、まあそんな「打算」ではなく「努力」ありき、「ひた向きさ」ありき、がプロの世界である。


その「プロフェッショナリズム」のさなかにおいて、自分の打ち込んでいるテーマそのものに「これごとき、何でもなし」というのはどういう精神だろうか。
厳し過ぎないか、と思った。
思えば、海外のアスリートたちはあまり「そういうストイックな表現」はしないのではないか。
「私にはテニスがあり、テニスが私の人生であり、家族であり、恋人だった。」などというかっこいい発言はよく優勝者のコメントで聞くことがある。
勝利者インタビューで「こんな大会ごとき」という人は日本人にもいないけれど、どうも本当のプロたちのマインドセットというのは、自分たちの挑むテーマの「さらに先」にあるのではないかと思うのである。


自分の仕事とか、趣味とか、なるたけ「本当に打ち込めるものを見つける」というのは人生でも重要な要素であると思う。
そして、それが見つかったなら「それが全て」ではなくて「それごとき」という視点は、さらに自分の思想を深めることになるだろう。
「ごとき」という言葉はそのたった三文字で己の「慢心」を完全に防いでくれる魔法のお札になるのである。


ちょっとそのストイックさは「ブシドー」に似ていないだろうか。
自分はこういう話が大好きである。