藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

サンデラ教授の講演から。


イチローの給与は高いか?とか、
多額の寄付金を条件に東大に入るのはNGか? などと面白いテーマが続く。


質問の中で「ベトナム戦争の兵士の判断」というのがあった。
敵基地を探索中に出会った農民を、「自分たちの存在がばれるから殺すか否か」という命題である。
結果、その農民が通報してしまい、「殺すべきではない」と言った兵士の友人は敵軍に撃たれて戦死する、というものだった。


まあそれについての論議はともかく。
よく先進国や国連、あるいは敵国の人間が捉えられ、人質になる。
日本のように派兵せず、経済援助とか、給油とか言う場合にはよくある事例である。
その場合に「いうなりの賠償額」あるいは「交渉しながらの身代金」を国が払うべきかどうか、ということについて疑問が湧く。
「誘拐犯と身代金」の国際版である。
犯人の言うなりになっていては、犯罪の温床となってしまう。
とはいえ「一切応じぬ」では自国民の忠誠心は低下するであろう。
究極の選択であり、正解のないジレンマだけれども、「国としてのスタンス」を決めておかないと、結果国内の統治にも悪影響を及ぼす。
一般市民は「オタオタしたリーダー」がもっとも嫌いなのだから。

必要なこと


結局「これからの○○の話をしよう」というのは、色んな話題について、それから目線を逸らさず、「自分なりの考えを表明しよう」という運動の標榜なのではないか、と思った。


意見は、まあどちらでもよい。
というか、どちらの意見にも正当性はそれなりにあるのである。
重要なのは「自らはいかなる主張を以ているのか」ということを考え、表明することにある。
「これからの○○」というのは、そういう「自律性」を自らに与えよ、ということの提言なのではないかと思う。
サンデル教授のこの講義がこれほどの支持を得るのも、「そうした態度を表明せよ」というメッセージが若者に直接的に受け入れられているのではないだろうか。
学生運動の時代に「どちらかの方向性に傾倒した若者たち」のように、若者たちは「どこかの方向性への示唆」を求めているのではないだろうか。


サンデル教授の指揮は非常にニュートラルで感心させられるものがあるが、必要なのは「自分自身の中で考えを追求する態度」なのではないだろうか。
どのテーマににも、その主題を指揮し、誘導してくれる「教授」は居るわけではない。
むしろ、日常の自分たちの人生では、直面する問題には「サンデラ教授」はいないのである。

そんな状況でも、自らの直面することに向き合い、自分で方向性を見いだして前進できるか?


結局必要なのは「そのような生きていく力」なのではないかと思う。
若い人に「それ」を伝えたくて、ダイナミックに出てきたのが「これからの正義の話をしよう」という講義形式なのではないだろうか。


若い人だけではなく、年配者が共感する理由は「それを伝えたかった」という動機がずい分と働いているのではないかと思うのである。
「これからの話」をしたい、というのは、むしろ年配者の思いの表現ではないだろうか。