藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人生にコツはあるか。

親友のN先生と、久しぶりの差し飲み。
お互いにこれからの若者について、どんな思いを持てばいいのか、というオジサン談義に花が咲く。

共通した概念は「まっとうにさえ」生きてくれれば…、というものだった。

同年代の井戸端会議は、そんなところが面白い。

だが、この「まっとう」は生半では達成できないのだ、というのが自分たちの結論でもあった。

もう少し、力の抜けた感覚でいえば「楽しく暮らす」ということか。
だが、また宗教的に言えば、それがどれほど困難なことか、という現実にも自分たちは直面する。

人生、自分の人生に関わる人数が増えるほどに、柵(しがらみ)も増える。

年を取ってゆく、ということは「かかわる人が増える」ということでもある。
「それ」を拒否して生きてゆくのは、なかなかに難しい。
なぜなら、「それ」はまた人同士の有難味とか、温もり、なんかも自分たちにもたらすからである。

友人の名言。

そうした中、自分たちの人生に必要な"エッセンス"と言えるようなものは何だろうか、という話になる。
エッセンス。


うーむ。
自分の人生なぞにそんなエラそうなものがあるだろうか……と互いにしばし沈黙。
「☆」
あった。

適度な大失敗。

この「適度な」というのは、「事後」のオッサン達からみた年上の優しさである、と理解していただきたい。

実は「とてつもない大失敗」、でよいのである。

けれど、本当に「心が丸ごと折れてしまうような挫折」に遭っては、ひょっとしたらその当人は立ち上がれないかもしれないではないか。
そんな老婆心が「適度な」という"超"思いやりの前置詞を付けているのであった。

自分の子供や、後輩には、なんとしても成長し、強くなってもらいたい。
だが、そんな彼らに最も必要なのは「大失敗」を経験することなのである。

後進を想いやればやるほど、自分たちは彼らを「保護」してしまう。
親子の関係なればなお一層である。
その「過保護」は、これまた驚くほどに「被保護者」を傲慢にさせ、世間知らずにさせてしまう。
その例は歴史上枚挙にいとまがない。


N先生の言う「適度な大失敗」は獅子が我が子を「千尋の谷に落とし込む」という志そのものなのである。
あえて、自分の後進や子孫には「その」覚悟をもって臨みたい。
結局それがいちばんの贈り物になるのである。


人生失敗ありき、くらいに開き直ってチャレンジしてみてもよいだろう。