藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

けじめへの態度。

加藤寛さんのコラムより。
祖父が二人の男の子に、それぞれ「正道」「守通」と名付けた。
公職にあった祖父はなにより公私の混同を嫌気したという。

そんな祖父のもとに育った父は、勤勉な人生を歩んだのち「人の世話になりたくない」と自死したという。

僕も正義を守ろうと学者の道に進んだんだ。
公を私のために利用するなという考えは、国の行財政改革に関わる時も支えになった。
私心がないからこそ皆が信用し、僕の言うことなら仕方ないと納得してくれた面もあると思う。

まず、信用されるリーダーは、私心がないことを自他ともに示さねばならない。

ビジネスの世界なら「自分たちが儲かること」というのは一見大義になることもある。
けれど多くは長続きしない。
「それ」を追求しているうちに、周囲と調和が取れなかったり、収奪的になり過ぎたりしてどこかで孤立するのである。
戦後の日本などでも、それで永続性を欠いた立派な企業は幾らもあるだろう。
営利主義は、ある意味コミュニティの調和を乱しかねないのである。

さらに、一国の国政を預かる立場なれば。
まず「私心のないこと」は当り前だが、非常に重要なエレメントである。
スキャンダルが発覚してインサイダーがどう、とか土地の不正取得がどう、とか、時の権力者にはつきものの話題だけれど、本末が転倒している。

最初からそうでなくともよい。
けれど、本当に一国のために自らをささげるのなら、まず「丸裸」になって事に臨むというのが基本だろう。
そうした「最初の姿勢」が定まらぬのに、頭がよいからと"リーダー"を標榜すると、後から齟齬が生まれてしまう。
徹底した倫理感こそ、リーダーに求められる必然の資質なのである。

「公を私に使うな」僕の支え 加藤寛さんasahi.comより>
おやじは明治18(1885)年生まれの役人で、僕が生まれた時は岩手県の郡長だった。その後、台湾に行って僕が7歳ぐらいの時に東京に戻り、区長を3カ所ほど務めた。祖父が厳格で、「道」という言葉が大好き。長男に正道、次男だったおやじに守道(もりみち)という名を付けた。

名前の通り厳格な人だった。汚職は絶対許さない。公を私のために利用してはいけないという精神がみなぎっていた。びんせんを使う時でも絶対に役所の物は使わない。僕が子どものころ、チョコレートをもらって食べていたら「誰からもらったんだ」とおやじに追及されて、泣いたこともあった。
僕は5人姉弟の末っ子。厳しいおやじも遊びにはよく連れて行ってくれた。海で泳いだり、相撲を見たり。お祭りなんかがあって夜店に行けば、いつも何か買ってくれてね。おふくろよりおやじの方が親しかった。

おやじは小学校しか出ていなかったが、勉強家でね。英語も全部片仮名でノートに書いていた。戦後、戦犯になって追放されたが、数年して解放される時に英語で届けを出さないといけなくて。それで僕がおやじの経歴なんかを全部書いたら、「中学校っていうのは結構英語を勉強させているんだな」と感心してくれたことを覚えている。
自由になって、今度は競馬場に就職した。最初は下っ端だったけど、きちょうめんだから、毎日みんなが来る前に行って掃除をする。区長だった経歴もあって取り立てられ、競馬を運営する団体の理事長になった。
でも、73歳で自殺した。理由はよくわからないけど、おやじらしく「人の世話になりたくない」と遺書にあり、葬式はしないよう書かれていた。
四角四面な背中だったけど、おやじの後ろ姿を見て、自分もそうありたいと思ってきた。僕も正義を守ろうと学者の道に進んだんだ。公を私のために利用するなという考えは、国の行財政改革に関わる時も支えになった。私心がないからこそ皆が信用し、僕の言うことなら仕方ないと納得してくれた面もあると思う。(聞き手・大西史晃)
かとう・ひろし 経済学者。慶応義塾大教授などを経て現在は嘉悦大学長。第2次臨時行政調査会で旧国鉄などの民営化を打ち出し、政府税制調査会の会長も務めた。政界などに多くの教え子がいる。85歳。