藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

リアルな満足。

若いころはお金がなく、「途方もない贅沢をしてみたら」などと妄想する。
それがどれほどのものか、またどれ程の富が必要なものか、実際にはまったく分からない。
リアリティがないから妄想なのだろう。
けれど、若さゆえ、そんな「突拍子もないことを想像すること」が閉そく感を感じる日常のガス抜きであり、またそれゆえ「得体の知れない希望」も未来に対して持てたのだと思う。

だから、今の二十代以下の世代に、ただただ現実の数字や事実だけを突き付け、「先代までのミステイクはともかく、これからの先進国には未来はない」などと宣うのは殺生というものだろう。
人間、身の丈以上の金銀や地域を支配したとて、実は「自分自身の満足」と比例していないのは歴史を見ても汲み取れる。
つまり「自分の価値観をどのレベルに見い出すか」という非常に高級なテーマに取り組まねばならない。
もう高度成長期の「ひたすら上を」という時代とは違うのだ、というに認識こそが何よりも重要なのだと思うのである。

満足の正体

自分が満たされていないと、つい「過分な支配」を求めてしまうのが我われである。
だから、少し立ち止まって考えてみる。
年金にしても、生活保護にしても、仕事にしても、出世や功名心の拡大にしても、自分たちは際限なく成長を約束し求め、また永遠に「それ」を追いかけ続けられるのだろうか。

そして我に返った日常には、もっともっと「ずっと平和」な気持ちが存在する。
週末を迎える、あるサラリーマンの詩(自分)である。

平日最後の金曜日。
ちょっとだけ。

春の夜長。
ちょっと温(ぬる)めのお風呂に浸かる。

なぜなら、長時間居続けるから。

ちょっとだけ仕事の本。
そして溜めていたマンガ。

ちょっとだけお風呂でいい音楽。(pc用ミニスピーカのちょっとだけいいやつと、スマホで)

ちょっとだけ発汗。

ちょっとだけ熱燗。

ちょっとだけ小説も。

ちょっとだけ週刊誌。
これで一週間分の「気にしたい平日」の帳尻を合わせる。

そして、ちょっとだけ冷たい缶ビール

これが最高の贅沢。

時間は有限である。
また学生、社会人、管理職、経営者、投資家、と皆それぞれにやらねばならないことも多い。
だから「時間の費やし方」というのは何にも勝る重要な概念である。
学生さんも、
社会人も、
管理職も、
経営職にある人も、

今一度「時間の後悔のない使い方」について考える機会を持つべきではないだろうか。
特に「後世の世代」に伝えたいものがある職種では、全く遅いこともなく。
そうした考えが、再び将来の日本を担ぎあげるのではないかと思うだ。