藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

正解は何か?

正解を追い求めるということ。
最近、同年代の複数の友人と話して妙な共通点に気付く。
(仕事か、結婚とか、子育てとか、親戚家族とか、親とか)「色んなことで、何が正解か分からなくなってきた」というのである。
四十にして惑わず、とはよく言ったものである。
迷いっぱなし。(笑)
(ただ、多くの五十代の先輩に尋ねると「五十になったら迷わなくなる」そうである。どうも腹が据わってしまうらしい。)

五十代を前にしての「人生最後の不安感」がそうさせるのだろう。
人生最後の「若い時」と言ってもいいのかもしれない。特に精神面が。

というのは、まだ精神的には老いておらず、けれど明らかに人生は「残り半分」だし、つまり「もしこれから何か新しい方向性を目指すのなら」今がラストチャンスかな・・・という漠然とした、けれど確かな実感を伴う感覚なのではないかと思っている。

「人間五十年」の時代なら、こういう精神と肉体のアンバランスはなかっただろう。
これも「体と精神のギャップ」の表れであり、そうした感覚も徐々に精神のほうが慣れてきて、ゆっくり年を取ることになるのだろうと想像する。

正解の追求について

今日の晩御飯は何にしよう?とか
仕事は何から手をつけるべきか?とか
何か新しい趣味を始めるか?とか
どんなテーマを勉強しようか?とか
友人を誘おうか?とか

日常、自分たちは行動するにつけ、「したいこと」と「すべきこと」を照らし合わせて生きている。

勿論、そんなことをいちいち意識してはいないが、結局見境なく行動したり、脈絡なく暴走することはない。
特に自分の周囲のことについては、天下国家を論じるのとは違い、切実な問題として身近に発生する。
例えば、仕事について、と言えば「より儲かるように」とか「より名誉や権力のある立場に」とか「より社会に役立つように」とか、皆「自分なりの思い」を抱きながら働いているだろう。
仕事だって楽しいに越したことはない。
それはともかく。

選択という行為。

「より○○な状態になるように」と思うと、「どちらがよいか」とか「どのような方法がよいか」ということを考えざるを得なくなる。

つまり自分たちの日常は、そうした「正解を求めての選択の連続」なのではないだろうか。(ということに気付いたのである)

これまで、シーンによっては「そうした(正解めいた)もの」は意識して探しては来たものの、日常の一挙手一投足ですらそうした「選択の集合体である」という風に考えたことはなかった。

これは何故だろうか?と考えたら、それは「習慣」のおかげだったと思う。(つづく)